宮沢賢治の書く物語は「水仙月の四日」や「かしわばやしの夜」などを挙げるまでもなく作品に植物が大きな役割を果たすことが多い。その中でも「花」を主人公にした短篇を集め、岩崎ちひろの絵を添えて編まれた短編集が『花の童話集』である。「まなづるとダァリヤ」「めくらぶどうと虹」「ひのきとひなげし」「黄いろのトマト」「おきなぐさ」「いちょうの実」という、他ではなかなかお目にかかれない小品が収録されている。表紙を除いてはモノトーンの、墨を刷いたようなちひろの絵がかえって色鮮やかな想像力をかき立てる。
はかなさと永遠
秋が深まり、丘の上で我こそは花の女王になろうと咲き誇る赤のダァリヤと、それを応援する黄色の二輪のダァリヤが咲いていた。沼のほとりで慎ましくひっそりと咲くのは白のダァリヤ。自らの美しさを誇ることばを飛んで行くまなづるにかける赤いダァリヤと、まなづるが「いいお晩ですね」と呼びかける純白の花。でも秋が終わりに近づくと赤のダァリヤはしおれて枯れかけ、手折られてしまう。それを追って悲しむ黄色のダァリヤ。
花の色の様はもちろん、お日様が撒く「コバルト硝子の粉」、夕暮れの「黄水晶(シトリン)の薄明穹」、「藍晶石のさわやかな夜」、秋が近づいた日の「日光の琥珀の波」など透明な鉱物質の比喩による光の描写がきらきらしい「まなづるとダァリヤ」。はるかな空にかかる虹に憧れるめくらぶどうと、そんな彼(彼女?)を諭す虹の寓話、「めくらぶどうと虹」。花をめぐる物語は、つかのまの美のはかなさと永遠の対比を表したものが多いようだ。
ひのきとひなげしのアリア
楽しいのは、にぎやかで可愛らしいひなげしたちが若いひのきの木にからかわれては、口々に「せばかり高くてばかあなひのき」と口をそろえて叫ぶ「ひのきとひなげし」だ。赤いひらひらするひなげしたちは、あした死ぬならどうせなら、スターになりたいと願っている。そこにばらの花の娘に化けた弟子を連れた悪魔が登場。ひなげしたちの虚栄心をくすぐり、美しくなれる薬といつわって、彼女たちのけし坊主と引き換えに魔法の呪文を謳いかける。それを見抜いたひのきが、にせ医者め、と追い払うのだが、時すでに遅く、ひなげしの花たちはほとんど黒くなって枯れかけていた。でも、ひなげしたちは「おせっかいのひのき」「ばかひのき」、「わあいわあい、おせっかいのおせっかいの、せい高ひのき」と怒り続ける。美しい時期はあっというまに終わってしまうひなげしの女ごころ、そのはかなさを賢治は批判しているのかもしれないけれども、ひのきのお説教をものともせずにきゃらきゃらと騒ぎ立てるひなげしたちが可愛い。
ところで、赤いひなげしにアヘンをとるけし坊主はできないのだけれど、そんなことを賢治が知らなかったとは思えない。であればしてやられたのは悪魔のほうだったのかもしれない。せっかくの呪文を、アリアにのせて歌ったものの手に入ったのは枯れた黒いひなげしの花殻ばかり、というのは深読みしすぎだろうか。『鏡の国のアリス』の「生きている花の庭」から影響を受けたのではないかともいわれている短篇である。
アンデルセン・テイスト
黄色のトマトを黄金だと信じた幼い兄妹、ペムペルとネリが、世知辛い世間に傷つく物語を語るハチドリ。「黄いろいトマト」はアンデルセンの作品だと言われてもおかしくない雰囲気である。「いちょうの実」もまたアンデルセンの「さやから飛び出たエンドウ豆のきょうだい」を思わせる。銀杏の子どもたちとの別れを悲しんで、お母さんの木は扇形の黄金の髪の毛をみんな落としてしまう。そのお母さんの髪を隠れ蓑にもらったり、なかよしの姉妹とふたりで旅立つことを約束したり、銀杏の子どもたちの旅立ちの朝が描かれる。毎秋、銀杏の実が落ちているのを見るたびに思い出す物語である。
おきなぐさに注意
短編集に出てくる中で、唯一知らなかった花が「おきなぐさ」別名「うずのしゅげ」だった。黒むらさきのつややかな花をつけるキンポウゲ科の植物。花びらに見えるのは萼なのだが、その裏が銀色のうぶ毛におおわれているので、銀色の花のように見える。花が終わると、思いもかけないようなうずまきの綿毛の種子になり、風にのって飛び、広がる。賢治の物語では、黒繻子でこしらえたさかずきのようなこの花は、だれからも愛される美しい花で、銀毛の種子になって空に旅立ち、変光星になるのである。鉢植えで売られているおきなぐさを見るたびに、花、茎、葉に生えているうぶ毛をとって病気の仲間の身体をさすってやるという蟻のことばを思い出すのだけれど、実はキンポウゲの種類によくあることだが、この草には毒があり、けっこう危ない有毒植物であるらしい。
第6回