企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第0回

このコラムでは、児童文学に現れる名ネコをとりあげて語ろうと考えている。しかし、表に現れていては名ネコとはいえない。さりげなく、題名に「ネコ」とつくこともなく、その名まえも表に出てこないのに、そのネコなしに物語はあり得ず、そのネコなしには結末もないという、あたかも身をひそめて獲物をねらうその生態どおり、また気が向けばとことんすりすりするが、気が向かなければ徹底的に無視するというその気性どおりの役割を果たす、そんなネコな物語を、ネコにすべての愛をささげる筆者が、1回に1冊ずつ、ネタ切れになるまで紹介しようという、いつ気まぐれなネコのようにそっぽを向いてしまうか予測もつかない、独断と偏見の私的児童文学ネコ事典の試みである(となるといいな、と思っている)。
わたしの家には、生まれたときから自然とネコがいた。いつもそれはノラネコが居ついたり、捨てられていた子ネコをひろってきたりしたもので、買ったことは一度もない。はじめて記憶に残る白黒ネコは、5匹の子ネコを生み、そのうち1匹が生き残った。当時、片言を話しはじめていた弟が、小動物すべてを「あぶ」と呼んでいたため、親ネコは「おおあぶ」子ネコは「ちいあぶ」転じて「ちあぶ」という名前になった。出たり入ったり自由に暮らしていた2匹は、きれい好きのおばあちゃんにいつも追いかけられ、雑巾で足をふかれていた。飼われているネコでも、死に目を人には見せないのだと聞いていたが、そのとおり、2匹ともそれぞれが死期になると、行方不明になってそのままだった。いや、あれはおとなたちが死んだネコを隠していたのかもしれない。
白い子ネコを拾ってきたこともある。青い目のその子は、周りをとりまく家族のなかで、まちがいなく、わたしをめがけて歩いてきて、膝に乗っかって眠りはじめた。しかし、その後、青かった目は黄色になり、おとなしい女の子だと思っていたそのネコは、家族以外には絶対触らせない超・気の強いオトナに成長した。
いま、ひとり暮らしのわたしの家には、ほとんど23時間眠っているお年寄りのお嬢さまネコがいる。ナルシストで、わがままで、偏食で、甘えたがりで、ときには爪を立て牙をむいてけがをさせられたことすらあるけれど、おネコさまのおかげでいまのわたしはある。
というわけで、本を読むときも登場ネコが気になってしかたないのである!
 
とりあえずは、ルイス・キャロル、モンゴメリ、安房直子のあたりから、もしかすると20回くらいいくかもしれず、いかないかもしれないが、古今東西のおネコさまをご紹介したい。
 
 第1回 ダイナとその子ネコたち、そしてチェシャネコ
 第2回 ネコと共に生きぬ
 第3回 番外編 ショートショートの私的試み わたしはずっと見ていた
 第4回 隔てられた二人をネコがつなぐ
 第5回 モヤ・キャッチャ
 第6回 ネコの手を借りた家出の話
 第7回 殺された子ネコの物語
 第8回 時を超えたネコ
 第9回 ビアトリクス・ポターとネコたち
 第10回 青い血が流れるネコ
 第11回 宮沢賢治とネコ
 第12回 白いおうむと白いねこ
 第13回 不老不死の青年と黒ネコ
 第14回 魔女と黒猫
 第15回 月島の黒猫は、緑と金の夢を見せるか
 

 
 
 
 
 
●著者紹介


川端有子 (かわばた・ありこ)
 

 
大学では英文科を出るも、児童文学をちっとも教えてくれない不満だけが残り、もっぱら「児童文学同好会」にいりびたっていた。好きが高じてさいわいなことに何人かのすばらしい先達との出会いを経て、児童文学を教える仕事につけた。ということで、いまはもっぱら世間の人々、そして学生たちの児童文学への誤解と偏見と戦い、「乙女の甘い夢を壊すドリーム・クラッシャー」と呼ばれている。幼いころから活字中毒者で、字を見ると読まずにはいられず、食事をしながら食卓塩のラベルを読みはじめて母にたしなめられた時期もあったが、いまは老眼のため、眼鏡をはずしてしげしげと見なければ読めなくなっているのがつらい。