企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第4回


吸血鬼文学『銀のキス』
YA小説に、吸血鬼が現れるのはもう珍しくもなんともない。<トワイライト>サーガや<バッフィー>シリーズ以来、吸血鬼ものはティーン向けの恋愛小説、学園小説の一ジャンルになったといってもいいくらいである。だが、実はその流行に先立って書かれていたのが、アネット・カーティス・クラウスの『銀のキス』(1990)だ。格段に知名度は低いものの、『銀のキス』は『ドラキュラ』(1897)以来の吸血鬼文学伝統に沿いつつ、300年を生きる吸血鬼サイモンの苦悩を描くと同時に、母の死に直面した少女ゾーイの心理を掘り下げる深みを持ち、吸血鬼の表象する、または、今まで表象してきた比喩的内容を踏まえ、「恐怖と欲望」、「死と性」というテーマを浮き上がらせている。
吸血鬼が単なる社会的<他者>ではなくなり、耽美性と心理的内面を付与されたということが20世紀後半の吸血鬼文学の特色であるが、この作品のサイモンもまた、兄によって吸血鬼にされ、自らの不死性を呪いながら、復讐を誓ってさまよう「ルネサンス絵画の天使のように美しい」青年である。一方、サイモンと運命的な出会いをするゾーイは16歳の少女。迫りくる母の死におびえる彼女には<死>のにおいがして、サイモンを惹きつけてしまう。物語はこのサイモンの一人称語りと、ゾーイの一人称語りが交互に登場し、二人の恋のゆくえと、サイモンが復讐を果たすまでを描き出している。
せつない結末に終わるホラー・ロマン、といってしまえばそれまでであるが、この作品には、児童文学の研究者としてはどうしても見過ごせない大きな<ひねり>がある。それはサイモンの兄で、300年前、母を殺め、サイモンを吸血鬼に変えたクリストファーの描かれ方にある。

永遠の少年
そもそも、クリストファーとサイモンは、イギリスはブリストル、裕福な商人の家に生まれた。クリストファーが6歳の時、フォン・グラッブ卿という不可思議な客人が、大陸から訪れて滞在し、彼を溺愛するようになった。そして卿は、クリストファーを拉致しかき消すように消えてしまった。グラッブ卿が、赤ワインしか飲まず食事をとらない、昼間寝ている、教会へ行かないなど、典型的な吸血鬼の性質を表していたことを皆が思い起こしたのはそれからであった。(おまけにグラッブ卿の溺愛に小児愛的性癖を読み取るのは難しいことではない。)
グラッブ卿によって吸血鬼に変えられたクリストファーは、永遠に6歳の姿のままだ。彼はその後、戻ってきて我が家の窓を訪い、母親を殺める。そして弟だったサイモンが19歳になった時、わなにかけて仲間に引き入れてしまったのであった。こうして見かけ上19歳の弟と、6歳の兄という吸血鬼が誕生する。呪われた運命におのれを引き込んだ兄クリストファーに対し復讐してやると誓ったサイモンは、彼の追ってついにアメリカにわたり(吸血鬼は流れる水を渡れないから、けっこう船酔いで苦労したらしい)、たまたまゾーイに出くわしたというわけであった。

「無垢で美しい子ども」の神話
クマのぬいぐるみを抱いた白い髪の毛と白い肌をした、いたいけなアルビノの子ども-迷子を装い、女性の気を引いては暗闇に引きずり込んで食欲を満たす、幼児の姿をした邪悪な吸血鬼。このおぞましいクリストファーの姿には、『エクソシスト』(1973)や『オーメン』(1976)に出てくるような、恐るべき悪に取りつかれた子どもという形象も見ることができるだろう。しかし、ほかの何よりも私を戦慄させたのは、この呪われた永遠の子どもが、テディ・ベアを抱いていて、クリストファーという名まえである、という点であった。
魔法の森で永遠に遊び続ける少年とクマ、クリストファー・ロビンとクマのプーさん(ウィニー・ザ・プー)。二つの世界大戦の間に書かれ、多くの人々の心を和ませてきた児童文学の古典、A・A・ミルンの『クマのプーさん』(1926)と『プー横丁にたった家』(1928)は、少年とテディ・ベアの姿を児童文学史に刻印している。実は、『銀のキス』のクリストファーが、自分のテディ・ベアの中にこっそり隠しているのは、故郷の土であり、吸血鬼である彼は、ドラキュラ以来の伝統通り、その土がなければ眠れないのだ。
無邪気な子どもを装ったクリストファーが、母たちを欺いて殺し続ける姿に、転倒した「無垢な子ども像」を見るのは容易である。さらに、窓から家に侵入して生みの母を襲った彼に、もう一人の、もっと有名な永遠の少年の面影を見ることもできる。J・M・バリの『ピーター・パン』(1911)である。
クリストファーがグラッブ卿にやすやすと魅入られていった背景に、その当時生まれたばかりの弟サイモンが、母の愛情を独り占めにしていると考えて恨んでいたという可能性が指摘されている。ピーター・パンもまた、一度家に帰ろうとしたところ、自分のベッドにほかの赤ちゃんが寝ていて、母が自分のことを忘れてしまったことを恨んで、ネヴァーランドに戻ったのだった。クリストファー同様、ピーター・パンにも、母に対する屈折した愛憎の感情が秘められている。
小野俊太郎は『ドラキュラの精神史』(2016)において、19世紀転換期において、外から侵入する他者への怖れが、吸血鬼文学を生んだと論じ、その中に『ピーター・パン』を含めている。この著書でこのくだりは、やや検証不足の感を否めないが、吸血鬼クリストファーの原型にピーター・パンがいるのは明らかである。
そうすると、白い髪の幼児吸血鬼クリストファーは、イギリス文学のロマン派の詩人たちが「天国の栄光を引き摺っている」と称え、児童文学が繰り返し描いてきた「無垢で美しい子ども」の神話を、見事に転倒して示した例だと考えられるであろう。

蛇足ながら、『ドラキュラ』の時代には、吸血鬼は外からきて感染を広げる、恐るべき病(コレラ)の比喩であった。吸血鬼の内面化が進む20世紀において、吸血鬼が表象する病も、外からくるのではなく、自らの身体の中で細胞が異常増殖するガンに変わっていったのだと考えると、ゾーイの母親の病状も理解できる。そしてその治療が、時には患者を「生きた死者」に変えてしまうこともあるとするとなお、意味深である。

二つの番外編
ネコはどこだ? と思われるかもしれない。実は、今まで述べてきた物語の内容にネコは登場しない。1990年に出版された後、2001年と2009年に、クラウスは二つの短い番外編を物語の前と後ろに付した。サイモンが語る「サマー・オブ・ラブ」は、二人が出会う前の話。物語の最後を締めくくる「クリスマスのネコ」は、三人称視点で描かれる。
この二つの番外編は、残念ながら、日本語版には含まれていない。こうした番外編はえてして蛇足のダメ押しのように感じられることが多いのだが、この場合は意外にも快い余韻を残し、物語にもう一つの層を加える効果をもたらした。そしてここでこそ、グリマルキンと名づけられたネコが、サイモンとゾーイを見えない糸で結びなおすのである。
1967年の夏は「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる社会・文化現象がサンフランシスコを中心に全米を席巻した。ベルボトムのジーンズに花柄のシャツ。ヒッピー、ダンス、ロックンロール、LSD、マリファナ、メスカリン。若者たちは夜を踊りあかして、酒にドラッグに酔いしれた。その渦の中で、愛を失い、愛するものを失って絶望するサイモンは、いくらでも手に入る女たちの血に酔いしれて、人の血を吸う怪物になりかけていた。それまでは動物を殺すことで自制していたのに、「サマー・オブ・ラブ」はサイモンを徐々に人外へと追いやりつつあったのである。
町はずれのヴィクトリアン様式の廃屋に住み着いていたサイモンが、そこで出会ったのがグリマルキンである。次第にサイモンに慣れていったこのネコは、300年来はじめて、サイモンに愛を取り戻させ、温かさを思いさせてくれた。だが、グリマルキンは毒にあたって苦しみながら死んでしまう。死にかけているネコを腕に抱いて必死に看病した甲斐もなく、ネコは死んでしまう。自分が一緒には絶対にいけない彼方へと旅立とうとしているネコに、サイモンは牙を立て、せめても楽に死ねるようにしてやった。そしてネコの血の少しでもが自分の中で生きながらえるようにと。
愛するものがみな自分を置いて去ってゆく、そんな絶望を抱いて、やがてアメリカを西から東へ、移動したサイモンは本文でゾーイに出会ったのであった。
この前日譚が1967年の西海岸に設定されることにより、本編の物語には間違いのない歴史性が与えられる。『銀のキス』が持つ、アメリカのYAらしい学園青春物的なパターンは、わたしにとってややうざったいものがあったのだが、それもまた、歴史的な文化現象の一部だったのかと、認識を新たにすることができた。

かわって、「クリスマスのネコ」は、ゾーイの母が死んでから二年目のクリスマス。大学に入ってサンフランシスコで単身、下宿生活をするゾーイが登場する。妻の死から立ち直れないでいる父から離れ、孤独に自分の道を探すゾーイは、下宿に一枚の絵を持ってきていた。18世紀の富裕なイギリス人家族の肖像だ。両親と二人の息子の幸せな家族写真は、サイモンが大切に持ってきた自分の子どもの頃のものである。
このさびれた下宿屋を住みかと決めたのは、なぜかネコが彼女の目を引いたからだった。中庭にいたそのネコは、夜になってゾーイのところにやってくる。ゾーイのやったツナ缶は食べずに、それでもネコはゾーイの部屋にとどまった。ゾーイはその晩、夢を見た。肖像画の通りの服装をしたサイモンが、ネコを膝にのせている夢だ。目が覚めると、不思議なことに、今までもずっとそこにいたかのように、絵の中のサイモンの脇には、一匹のネコがいるのだった。なぜだか、幸せな気分になったゾーイは、とりあえず、自分もネコを飼ってみようか、と考える。
季節はクリスマス。死とその受容で結末を迎えた物語は、この後日談によってゾーイが間違いなく、生のほうに向かって心を開いていくことが予感できる。

ゾーイが、もとサイモンが暮らしていた家に下宿するという偶然を招いたのは、サイモンのもとに行きたかったネコの思いだったのであろう。サイモンもゾーイも自分では知らないけれど、グリマルキンというネコは、一ことのセリフもないながら、愛と孤独を埋めるように、隔てられた二人をわかちがたくつないでいるのである。

繰り返すことになるが、日本語訳は2001年に出版されていて、上記の番外編は含まれていない。訳出されて版を重ねることも、残念ながら多分ないだろう。しかし、もし万一、わたしに翻訳する機会が与えられるなら、ルネサンス絵画の天使のようなサイモンに「おれ」という一人称は使わせないだろう。

 
 
 
 



 

 
『銀のキス』
アネット・カーティス・クラウス
柳田利枝/訳
徳間書店
 

 
『クマのプーさん』
A・A・ミルン
石井桃子/訳
岩波少年文庫
 

 
『プー横丁にたった家』
A・A・ミルン
石井桃子/訳
岩波少年文庫
 

 
『ピーター・パンとウェンディ』
J・M・バリー
F・D・ベッドフォード/画
石井桃子/訳
福音館文庫
 

 
『ドラキュラの精神史』
小野俊太郎
彩流社