企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第8回

ピートへのオマージュ
厳密に言えば、この本は児童文学ではない。けれどもSFを読み始めた中学生の時、心を躍らせたタイムトラベルの物語、そしてそこにはとびっきり魅力的なピートというネコが出てくる、となると、ここで取り上げてもいいだろう。おそらくネコが好きでSFを読んでいる人なら、だれでも、語り手ダンのカバンの中に入って、ジンジャー・エールをなめる、このネコを覚えているはずだ。

30年後の目覚め
1970年、発明家のダンは、恋人ベルに裏切られて傷つき、すっかり世の中に絶望していた。そうだ、冷凍睡眠という手がある、とダンは思いつく。自分をだましたベルが死んでしまうまで眠ってしまえば、彼女から受けた仕打ちを忘れ、心の外へ追いやってしまえるだろう。冷凍睡眠は保険会社が始めた新規の試みで、何十年後かに新薬が開発されていることを期待した人や、眠っている間に年金が増えることを願う人、よりよい未来を夢見る人々に売り込みを始めていた。
しかし、ピートはどうしたらいいのだろうか。寒い冬の日々、外に行きたくなると、ダンにひとつひとつ、ドアを開けさせるネコのピート。彼は家のどこかのドアが、必ずや夏に通じていると信じていた。全部で11あるダンの家のドアを全部試してみて、すべてのドアのむこうに冷たい雪が積もっているのを確認したあとでも、ピートはどこかにきっと、夏への扉があるという希望を捨てない。
ダンは、保険会社の社員に掛け合って、愛猫もいっしょに冷凍睡眠させてもらうことを取り決める。
結局、ダンは申し込みをしたことを後悔し、いったんはこの契約を破棄しようとするのだが……。
長年の親友で、共同経営者のマイルズが自分を裏切っていたこと、彼とベルが実は二人して自分を欺いていたことが発覚したのである。二人はダンに薬を打ち、強制的に冷凍睡眠させてしまうのだ。ダンはピートとも別れ別れになってしまう。
ダンが目を覚ましたのは20世紀最後の年の暮。そして21世紀は、30年間年を取らずに眠っていた彼を迎える。

二度目の21世紀
マイルズの先妻の娘フレドリカ(通称リッキィ)をダンはとても可愛がっていた。ダンの留守中、ピートを預かってくれるのもリッキィだった。おしゃまなリッキィは、おとなになったらダンと結婚するのだと言っていたものだ。ダンはそもそも冷凍睡眠するなら、自分の財産をリッキーに譲渡しようと考えており、すでに郵便でその手続きも終えていた。しかし、ベルとマイルズに強制された冷凍睡眠ののち、ダンはいろいろな事柄が、自分の画策してきた通りにはなっていないことに気づく。
なんとか生計をたてながら、21世紀で、失ったピートと、たぶん40歳くらいになっているだろうリッキィを探して手掛かりを探るダンは、極秘で過去へ戻るタイムマシンを開発している男と知り合う。いまだ実験段階のタイムマシンの欠点は、過去に行くと、また21世紀に戻ってくるすべがないということだった。一計を案じたダンは、彼を半ばだますように説得し、タイムマシンでまた30年前の世界に舞い戻る。
21世紀の結果を知っているダンは、策略をめぐらせ、自分の発明を守り、裏切り者に復讐を遂げる。そしてリッキィには、もし自分にもう一度会いたければ21世紀に冷凍睡眠するよう告げた手紙を残し、再び21世紀に向かって、今度こそ、ピートと共に眠る。

こうして二度目の21世紀。ダンは、妙齢の女性に成長して冷凍睡眠から目覚めるリッキィを迎えに行き、理想の妻を手に入れる。決して「夏への扉」をあきらめない、けんかっぱやい、ジンジャー・エールの好きなネコのピートも一緒だ。ダンはこうして「夏への扉」を手に入れた。

信念を貫きとおす存在
「…ピートは、どの猫もそうなように、どうしても戸外に出たがって仕方ない。彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。」p.369

この物語において、ネコとは、潔いまでに信念を貫きとおす、自分と未来について確信を持つ存在だ。世界は自分を中心に動いている。人間は自分のために、ドアを開けてくれるためにいる。どんなに寒い冬の日でも、夏への扉を探し続けるピートの姿に惹かれずにはいられない。
 
しかし、同時に、SFがここまで楽天的な結末を書くことのできたアメリカの1958年という時代は、今となっては驚異的ですらある。次から次へと冷凍睡眠を行って未来へ行けば、そこには必ずよりよい世界が、求める夏への扉があると確信できた、そんな時代。冷凍睡眠とタイムマシンを組み合わせて、じつにうまくハッピー・エンディングを手に入れたダン。
本当に21世紀を迎えた現在、ハインラインの型にはまった女性描写と、能天気なご都合主義にややうんざりしながら再読した『夏への扉』はややビターな後味を残した。何しろ、冷凍睡眠をしないのに、もう最初に読んでから40年が経っているのだ。「文化女中器」とは呼ばれないまでも、AIロボットなら実在する。
ただ一つ、変わらない印象は、ピートの毅然としたネコぶりだけである。思っていたより、ピートの登場場面も少なかったし、ピートの存在は筋にそんなに関わっていない。それでも、このネコが出て来なかったら、わたしはこの本を読まなかったかもしれない。いろいろな作品で見てきたけれど、ここでもネコはもう一つの世界への案内役なのだ。

ちなみに、リッキィは作中でふざけて「リッキィ・ティッキィ・タヴィ」と呼ばれるが、これはキプリングの『ジャングル・ブック』の中の短篇の題名だ。モウグリが登場しない物語の一つで、インドのイギリス人宅が舞台。ガラガラヘビと戦って、イギリス人の少年を救う勇敢なマングースの名前である。宗主国イギリスに刃向う現地の脅威(ヘビ)対イギリス人少年に飼いならされた傭兵(マングース)との解釈もある話だが、それはまたネコの話ではないので、ここで深入りはしない。

山下達郎の「夏への扉」という歌は、もちろんハインラインへのオマージュだが、歌の中でくりかえされる「リッキィ・ティッキィ・タヴィ」というリフレインを覚えている人も多いだろう。











『夏への扉』
ロバート・A ・ハインライン
福島正実 /訳
ハヤカワ文庫