企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第90回 

ギュンウシュウ出版2026年秋の新刊①

1.Sana Meydan Okuyorum / きみに挑戦状を

ギュンウシュウ出版創立30周年を記念して新たに立ち上げた「ミステリアス・アドベンチャー・シリーズ」から、ミステリー作家スアト・ドゥマンによる「マルス・ヴルペス」シリーズの第2巻。
 
主人公マルス・ヴルペスが、自分宛てに届いた奇妙な手紙の謎を追う。マルスと親友ふたりが結成したジュール・ヴェルヌ・クラブの活躍が描かれる。
 
小学校中学年以上推奨。
 

© Günışığı Kitaplığı

 
学校で劇が上演されることになった。マルスたち3人はホールの出口に一番近い、つまり舞台から一番遠い席に座ることに決めた。ジェミルが一番はし、ギュネシは次で、マルスはそのとなり。
 
ベルが鳴り、ホールの明かりが消え、舞台が明るくなった。副校長が舞台に上がった。
 
「生徒のみなさん、演劇への関心を示してくれたことを本当に嬉しく思いますよ。まもなく始まります」と喜びと誇りをこめて語った。
 
「先生方から事前に説明があったと思いますが、この劇は参加型です。劇団員がそれぞれの役を演じる一方で、みなさんにも劇に参加してもらい、意見や感想で物語を完成させていきます。みなさんがこの日を心待ちにしていたことを知っていますよ。きっと楽しめるはずです。さあ、ショーを楽しんでください」
 
観客から大きな拍手が沸き、短い沈黙のあと、舞台を端から端までおおっていた分厚いワインレッドの幕が両側に開いた。
 
その瞬間から、全然無関心だった生徒でさえ魅了された。気が散っていた生徒は集中し、参考書に没頭していた生徒は本を放り出した。自分の存在意義を疑っていた生徒は、疑うことをやめた。音楽なしでは一瞬たりともいられない生徒が、ヘッドホンを外した。出ていこうかと考えていた生徒、ゲームをしたがっていた生徒、寝てしまおうかと考えていた生徒、落ち着きのない生徒も、舞台の照明に心を奪われた。トイレに行きたかった生徒は、「まあ、別に急ぐこともなかったし」と言った。空腹の生徒のお腹の音も止まった。頭痛に悩まされていた生徒、悲しんでいた生徒、内気な生徒、お調子者の生徒……だれもが、本当にだれもが、幕の向こう側を見た瞬間に、まるで別の時代を垣間見る機会を得たかのように、好奇心と熱意をもって舞台に身を委ねた。
 
舞台装置は簡素だが説得力のあるものだった。左右に扉があり、片方は細く開いていて、別の部屋に通じている。壁のコートかけに服がかかっている。左側の壁ぎわにはストーブが置かれ、オレンジ色の炎が揺らめいている。中央には黒く塗られた木製のテーブルとイス。使い古されたテーブルの足元には書類が山積みで、テーブルの上には巨大な黒いタイプライターが見える。
警察官の制服を着た男が新聞を手にイスに座り、開いて読み始めた。
 
語り手が舞台に現れた。「ここは1920年のイスタンブル」と語りはじめた。
 
「当時、私たちの首都は占領下にあった。占領軍は市の行政をほぼ掌握していた。しかし、人々このままではいけないことを知っていた。アナトリアでは独立戦争が始まっていた。イスタンブルを脱出し、アナトリアで戦う者たちがいた。前線へ行けない人々は、そこからのニュースを待ち望んでいた。ここは……」語り手は自分が立っている舞台を差した。「オスマン帝国の治安機関中枢のひとつ……」(注1)
 
劇が進んでいくと、生徒たちに謎めいた問いかけがなされた。それに続いて、マルス・ヴルペス宛てに差出人不明の手紙が届く。校長をはじめ学校中の生徒は、マルスたちジュール・ヴェルヌ・クラブが劇の謎と、手紙の送り主の正体を突きとめるのを見守ることになる。
注1:祖国解放戦争。トルコ革命、トルコ独立戦争とも。第一次世界大戦(1914~1918)に中央同盟国側で参戦したオスマン帝国は敗戦。当時の首都イスタンブルは連合国側の軍に半ば占領された状態であり、国土も分割される寸前だった。これに対しアナトリア各地で抵抗運動が展開され、その指導者となったのが後のトルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク。
 
本作中の演劇の舞台となった1920年は、抵抗運動の最中、アンカラで大国民議会が招集された年である。初代議長にはアタテュルクが就任した。これによりオスマン帝国内には、オスマン帝国の維持をはかるイスタンブルの帝国政府と、革命政権であるアンカラの大国民議会政府が存在することとなり、事実上の分裂を見た。
 

作家プロフィール


Suat Duman
(スアト・ドゥマン)
1977年、トルコ北東部のカルス生まれ。アンカラ大学法学部を卒業。弁護士として勤務するかたわら、犯罪小説の執筆を開始する。最初の作品『殺人の季節』(2009)に続き、『時効の犯罪』(2011)、『世界の死体』(2015)を発表。2012年、友人4人とともにアラカルガ出版社を設立する。
著書『アライグマ』(2018)は、2018年のデュンヤ出版ブックアワードで推理小説部門年間最優秀賞に選出された。全10巻からなる歴史犯罪シリーズ(総題「1918」)の最初の2巻、『ああ恐怖!恐怖!恐怖!』と『わが心、無人の故郷』が2020年に出版。その後、続刊の『彷徨う幽霊』(2021)、『解剖学の授業』(2025)が刊行された。
ギュンウシュウ出版から、著者初の児童向け作品となるマルス・ヴルペスのシリーズ第1巻『消えた鳥の声』(2026)が刊行された。第2巻『きみに挑戦状を』も続いての刊行となった。
イスタンブル在住。
 
  
執筆者プロフィール


鈴木郁子
(すずき・いくこ)
出版関連の会社に勤務後、トルコへ留学。イスタンブルで、マルマラ大学大学院の近・現代トルコ文学室に在籍し、19世紀末から現代までのトルコ文学を学ぶ。修士論文のテーマは『アフメット・ハーシムの詩に見える俳句的美意識の影響』。 
 
帰国後は、トルコ作品、特に児童書やヤングアダルト作品を日本に紹介しようと活動を続けている。トルコ語通訳・翻訳も行う。トルコ文芸文化研究会所属。 著書に『アジアの道案内 トルコ まちの市場で買いものしよう』(玉川大学出版部)、翻訳に『オメル・セイフェッティン短編選集』(公益財団法人 大同生命国際文化基金)