ギュンウシュウ出版2025年春の新刊①
1.Arkadaşım Çelik /わたしの友だちチェリキ
現代世界の一部では当たり前のように受け入れられている家庭内テクノロジーとこれまでの価値観をすり合わせ、未来へ向けるべき視線と、同時に失ってはならないものを描くセルハン・オクの作品。
ロボット掃除機や接客ロボットに加え、テクノロジーを用いたペットロボットも多く開発されるなかで、自然のことを忘れずどう向き合うかを探りつつ、稀有な友情のありかたについても考える。
挿絵は、ムラト・ウリュケル。
小学校中学年以上推奨。
父さんは一家で都会から田舎へ引っ越すことを決め、セナはいやいやながらそれについてきた。今の家に住んで5か月になるが、友人たちや以前の家への思いは募る一方だ。
ある日、セナは手なぐさみに木の人形に体操選手のようなポーズを取らせて遊んでいたが、手を滑らせて壊してしまった。父さんはなにも言わず、バラバラになった人形を拾い集め、直るだろうか、というように眺めている。その姿を見てセナは爆発した。
「そんな気持ちの悪い人形なんかいらない! 買ったとこに返してきてよ!」
父さんはドアのところで立ち止まり、「言ってもしかたないことだが、これは買ったんじゃないよ、私が作ったんだ」とだけ言って部屋を出て行った。セナは、時間を巻き戻せたらと思った。明日の朝、父さんが全部忘れていてくれたらとも。
裏庭のトチノキの枝が窓をたたいた。セナは、窓を開けるとトチノキの葉っぱを破っては捨てて、八つ当たりした。窓からの風景はただ暗く、遠くの家の明かりが枝のあいだから見えるだけだ。そこへ母さんが入ってきた。
セナは「家に帰りたい」と訴える。母さんの答えは「私も、前の家が恋しいわよ」だった。そうだ、もう「前の家」なんだ、とセナは実感した。
セナの気持ちは、父さんがツリーハウスを作ってくれても晴れないままだった。一家は有機栽培のリンゴを作り、買い手を探すことになるが、そこへ怪しげなブローカーが訪ねてきた。
同じころ、セナは森で不思議な馬に出会い、こっそりと家に連れ帰る。
2.Leb Demeden Leblebi /言いたいことは全部わかる
ハジェル・クルジュオールが描く、少しだけ昔の時代へ読者をいざなう物語。
隣人関係が親密で、子どもたちがソーダ水のボトルに夢中になり、庭遊びやいたずらなどに精を出し、まだそれほどテクノロジーが重要視されていなかった「少し昔」の時代である。
古い写真のアルバムをめくるような優しさに満ちつつ、現在の社会生活と文化の価値を考えさせる作品と評価されている。
小学校高学年以上推奨。
ドゥルは気がつくと見知らぬ町にいた。道には庭付き平屋建ての家が並んでいる。しかし、どの家のドアをたたいても誰も出てこない。道の名前を示す看板は見つかったけれど、そこに書かれたユルドゥルム・ベヤズト通り(注1)なんて知らない。
「ここはどこなんだろう。わたし、どうやってここに来たんだろう」
ドゥルが我慢できずに泣きだしたとき、女性の歌声が聞こえてきた。声のする家へ入ってみると、歌は作業場のような小屋から流れてくる。そっと中をのぞくと、女性たちが箱の上にかがみこんでイチジクを詰める作業をしながら歌っていた。
しかし、彼女たちが着ている服や作業場の様子は、どう見てもドゥルの知っている時代よりも昔のものだ。「わたし、SF映画みたいにタイムスリップしちゃったのかな」と考えたドゥルは慌ててそこから逃げ出した。
道の端に腰をおろし、声をあげて泣いていると女の子の声がした。
「ちょっと、なに大声出してんの! 世界中がビリビリ震えてるじゃない!」
見ると、前の家のバルコニーから同い年くらいの女の子が見下ろしている。
「わたし、どうしてここにいるのかわからないの」とドゥルが訴えると、少女は「わからないって意味がわからないわよ」とぶつぶつ言いながらも助けてくれることになった。
少女がドゥルをつれて家に入ろうとすると、どこからともなく不思議な声がした。その声はドゥルの名前を呼び、少女の名前もジャーレだと言い当て、ふたりは自分が書いた物語の登場人物なのだと告げた。
そう言われたところで、ドゥルにはジャーレを頼る以外に道はなかった。コウノトリの鳴き声が響くなか、行方不明の雄鶏を追いかけたり、氷屋や駅を訪ねたりしながら、ドゥルは自分が見知らぬこの町に来た理由を探り出そうと奮闘する。
注1:オスマン帝国第4代皇帝バヤズィト1世のこと。1360~1403年。在位1389~1402年。ユルドゥルムとは稲妻のことで「雷帝バヤズィト」と呼ばれた。名前を冠した道、大学や地区などがトルコ国内各地に見られる。
作家プロフィール
Serhan Ok
(セルハン・オク)
1984年、カイセリ生まれ。ビルケント大学で産業工学を修了したのち、イェディテペ大学で人類学の修士号を取得した。心理学についても学んでいる。マルマラ大学とバフチェシェヒル大学でブランディングと広告学について講義を行っている。高校の国語教師に後押しされ16歳で執筆活動を始めた作者は、児童向け作品に重点を置いてきた。コロナのパンデミック期間から脱した新たな生活を描く『慎重な隔離』(2021)で2023年に受賞した。同年に習作として『馬の尾』を発表。同作は2025年にギュンウシュウ出版から『わたしの友だちチェリキ』として出版された。
妻、息子とともにイスタンブルに暮らす。
Hacer Kılcıoğlu
(ハジェル・クルジュオール)
アラシェヒル生まれ。英語教師として勤務した。自身の子ども時代の思い出を『わたしはむかし子どもだった』(2003)、『ジャーレと語る』(2006)にまとめている。最初の児童向け作品は『木曜日がとても好き』(2009)。続いて同じ地区で育った3人の芸術家の子ども時代を描いた『イズミルの3人の子ども―セゼン、ハルク、メルテム』(2010)を発表した。
また、旅行での体験を反映させた『お月さまはどこにでも』(2012)は、Çocuk ve Gençlik Yayınları Derneği(ÇGYD/児童・ヤングアダルト図書協会)の、「2012年の物語作品」に選ばれた。2015年の『山は沈黙し、山は語る』で、ヤングアダルト作品にも挑戦。『ラジオの窓』(2019)に続き、『こんにちは薬局』(2021)を発表した。『ルナ、ペダルをこいで』(2023)に続き、『言いたいことは全部わかる』(2025)が最新作となる。イズミルに暮らし、娘と息子がそれぞれひとりずつある。
執筆者プロフィール
鈴木郁子
(すずき・いくこ)
出版関連の会社に勤務後、トルコへ留学。イスタンブルで、マルマラ大学大学院の近・現代トルコ文学室に在籍し、19世紀末から現代までのトルコ文学を学ぶ。修士論文のテーマは『アフメット・ハーシムの詩に見える俳句的美意識の影響』。
帰国後は、トルコ作品、特に児童書やヤングアダルト作品を日本に紹介しようと活動を続けている。トルコ語通訳・翻訳も行う。トルコ文芸文化研究会所属。 著書に『アジアの道案内 トルコ まちの市場で買いものしよう』(玉川大学出版部)、翻訳に『オメル・セイフェッティン短編選集』(公益財団法人 大同生命国際文化基金)