アンデルセンやグリムはごく小さな子どものころから友だちだった。幼い日々の輝き、青春時代の慰め、心の本棚にはいつもこれらの作品が並んでいて、「みにくいあひるの子」や「ヘンゼルとグレーテル」の話は、自分のために書かれたのかもしれないと想像したりした。理系の著述業である父親の書棚にも自由にアクセスできた。動物や植物の図鑑、精緻な絵入りの進化論の専門書は私にとっての絵本だった。野山や空や海に生きるものたちの曲線や直線の美しさ、色合いやバランスの巧みさは衝撃的であった。自然はパーフェクトに完結していると無知な子どもにも伝わってきた。一方でディケンズやヴェルヌ、プーシキンやトルストイの本も小学生の時から読んでいた。
いつから字を読むことができたのか、本の山は家じゅうにあって本は遊び道具だった。導き手もなく、読書指導も発達理論も無縁の環境で、活字の海を自己流で泳ぐ、いびつな乱読だった。『オネーギン』(プーシキン作)などは、成人してから読み返して、子どもの時の印象と当然ちがうので驚いた。しかしどの本もおもしろかった。知らない漢字や意味は、歯止めのきかない想像力でたのしい要素に変身をとげさせたから退屈するはずがない。
子どもたちが大学に入るまで、テレビは我が家に登場しなかった。小学生のときに、父は「動物の子どもたち」を書いた。動物同士の会話の場面、ハイネの詩、森で生きるものと海で生きるものの特長のちがいの叙述などが多彩な形式で展開されるノンフィクションである。動物の親子、人間の親子、大自然の営みと生命の多様さを知ることができた。活字の海を無目的に漂う日々は変わらなかったが、少しだけ「考える」ことを始めるきっかけとなった本である。
●百々佑利子(もも・ゆりこ)
英語圏児童文学翻訳家。訳書に『クシュラの奇跡 140冊の絵本との日々』(のら書店)、『世界のはじまり』『空想動物ものがたり』『古代エジプトのものがたり』『カンガルーには、なぜふくろがあるのか』(岩波書店)、『蝶の目と草はらの秘密』(共訳、冨山房)など。
■わたしがくりかえし読む本
『王書 古代ペルシャの神話・伝説』
大人になってから絵入りの物語本に魅せられるようになった。とりわけ南半球の昔話や神話の絵本にひかれた。生の声の語りも聞いてみたい。実現までに時間がかかったが、ニュージーランドや豪州に渡り先住民族の語りを聞かせてもらうことができた。さまざまの文化圏の神話や部族伝説を素材にした絵本の訳出をする機会も得た。勤務していた大学で「世界の神話」という新設の講座を担当し、学生たちとメソポタミア、エジプト、ギリシア・ローマなど古代の物語世界の探求の時間をもつこともできた。集めた本のなかで『王書 古代ペルシャの神話・伝説』は、繰り返し開く。ペルシャ語ができなくても、おおらかで美しい訳文は読者を遥か蒼穹のかなたまで運んで、「廻る天輪」の光栄と暗澹とを見せてくれる。高揚する歓喜も、打ちのめされる悲哀も、言葉で表現される。千年前の作者と現代日本の訳者の「文学力」に出会えてほんとうに幸せである。多くの名著の運命同様、この文庫本も長らく品切れだったが、この7月には重版されるようだ。この1冊を失うわけにはいかない。
●ここに出てくる本
「動物の子どもたち」
『少年少女科学名著全集11』所収
●八杉竜一/著
●国土社
『王書
古代ペルシャの神話・伝説』
●フェルドウスィー/作
●岡田恵美子/訳
●岩波文庫