企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第7回
 

番外編として、イスタンブルにある聖ニコラウスの名を冠した教会をご紹介します。
 
 
イスタンブルの旧市街側、金閣湾沿いのジバーリ地区にある、アヤ・ニコラ教会(Aya Nikola Kilisesi)です。金閣湾沿いにのびるアブドゥレゼル・パシャ通りに面しています。狭い歩道わきすぐに教会の壁があるため、歩いていると視界に入らず見落としがちですが、ビザンツ帝国時代から残る古い教会です。

 
 

©suzuki ikuko
大通りに面して教会の名前が掲げられている

 
 
この教会を訪れたのは、トルコ滞在中の2011年10月のことでした。イスタンブルのある旅行会社の広告、「金閣湾沿いの教会をメインとした日帰り歴史ツアーを開催」を偶然見つけ、普段は入れない教会の内部が見られるということで参加を決めました。
 
 
教会を紹介する前に、金閣湾とその沿岸について触れておきたいと思います。

 
 
金閣湾は、イスタンブルのヨーロッパサイドを旧市街と新市街に分ける細長い入江です。古代ギリシャの植民地ビザンティオンの入植は金角湾沿いから始まったとされ、今日のイスタンブルの原点と言ってもよいでしょう。ビザンツ帝国時代には、漁業、海運業、海軍など海に関わる分野の中心地でした。

 
 

 ©suzuki ikuko
アヤ・二コラ教会から大通りをはさんだ向こう側は金閣湾
 

 
 
ビザンツ帝国時代、主なギリシャ正教会、ユダヤ教会などが金閣湾沿いに建てられ、ビザンツ皇帝の許可を得ていた地中海海運業の商人たちがコロニーを作りました。その後、オスマン朝によりコンスタンティノポリスが陥落すると、ギリシャ人、グルジア人、ユダヤ人、イタリア人、そのほかの非ムスリムの人々は、金閣湾沿いに移住させられました。トルコでは今日まで人口の大部分をムスリムが占めていますが、金閣湾沿いにはいまだに多くの教会が残っています。アヤ・ニコラ教会もそのひとつです。

 
 

©suzuki ikuko
アルメニア正教会の前。写真左の壁の奥が今でも信者たちが通う教会

 
 

©suzuki ikuko
シナゴーグの前。今でも金閣湾沿いには、様々な宗教が共存している
 

 
 
15世紀後半、スペインを追われたユダヤ人がオスマン帝国皇帝バヤズィト2世(1447~1512)の許しを得てイスタンブルに移住してくると、バヤズィト2世は彼らを金閣湾沿いのバラット地区に住まわせませました。となりのフェネル地区にギリシャ正教会の総本山コンスタンティノープル総主教庁が移転したことを受けて、陥落以降、金閣湾沿いでギリシャ人の人口は増加しました。反対にイタリア人(ジェノヴァ人、ヴェネツィア人など)は今日のガラタ地区(金閣湾の反対側、新市街)へと移動しました。

 
 

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コンスタンティノープル総主教庁。正面には、「東ローマの後継者」を示す双頭の鷲

 
 
金閣湾沿いはオスマン帝国の時代まで、多くの民族、文化、宗教が混在していました。その名残は、今日でもこの地区に建つ複数の宗教の教会などに見え、イスタンブルのモザイク模様を担う重要な場所となっています。曲がりくねった細い路地や、坂道、階段などが多く、迷路のようになっているのも魅力です。

 
 

©suzuki ikuko
古い形の家が立ち並ぶ金閣湾沿いの地区。
下りの道を見つけると、そのうち金閣湾に出られる

 
 
さて、イスタンブルの聖ニコラウス教会である、アヤ・ニコラ教会です。ギリシャ正教の教会で、大通りに面した外側からは扉と壁しか見えませんが、注意をすると小さな丸屋根と鐘楼に気付きます。

 
 
教会はビザンツ帝国時代から続いていますが、文献にその名が登場するのは1576年のことで、この年に教会で行われた儀式に参列したS. Gerlach(注1)という人物が、金閣湾に近く、テオドシウス帝の城壁の外に建てられている、と記しているそうです。何度か火事で焼失しましたが、オスマン帝国皇帝ムスタファ3世(1717~1774)の治世に新たに建て直されました。その後、再び火事に遭い、1837年から一年かけてギリシャ人建築家によって再建され、今日の姿になっています。

 
 
教会は周囲を高い壁で囲まれており、中に入るとそれがよく分かります。テオドシウス帝の城壁の外側に着けるように建てられ、道路よりも一段低くなった前庭へ階段を下って入ります。そこが中庭になっています。

 
 

©suzuki ikuko
階段の上が道路に面した門。教会は一段低いところにある

 
 

©suzuki ikuko
中庭の奥に続く扉。そちら側は立ち入り禁止だった

 
 

©suzuki ikuko
中庭には聖母子のイコンが飾られていた

 
 
アヤ・ニコラ教会の写真の色が黄色味がかっているのは、中庭の上にポリカーボネート板が張られ雨よけになっているのですが、その色が黄色いためです。中庭にもイコンが置かれています。ガイドの説明によると、教会は東西に建てられており、三つの側廊を持つバシリカです。中庭に向かって東側の入り口が開いていて、のぞきこむと西側正面に拝所が見えました。教会内部は写真が禁止だったので、中庭から写真を撮っているとき、入り口の前にかけられた船に気がつきました。

 
 

©suzuki ikuko
教会入口前に下がる船。ガラスかクリスタルをつなげて作られているよう

 
 
聖ニコラウスは、船乗りと海運の守護聖人です。今なら、「なるほど」と思いますが、当時は「なぜ船なのか?」と首をかしげました。この時、聖ニコラウスとサンタクロースの関係は知っていましたが、聖ニコラウスが何の守護聖人であるか、という点までは考えが及ばなかったのです。

 
 
さらに、入り口の上には新しいものですがフレスコ画があり、嵐の中の船を救う聖ニコラウスが描かれています。

 
 

©suzuki ikuko
嵐の中で沈みかけた船の助けに現れた聖ニコラウスのフレスコ画。
見学時間があって慌てていたのでブレてしまった

 
 
イスタンブルに建てられた聖ニコラウス教会と海にまつわる伝説があります。大司教と聖ニコラウスのイコンの物語です。ジョゼフ・A・マカラーが『サンタクロース物語 歴史と伝説』(注2)の中で述べています。
  
 
コンスタンティノープルに住むテオファヌスという男が夢で、イコンを三枚描かせ、それを地区の大司教に納めよ、という声を聞きました。テオファヌスは、画家に三枚の美しいイコンを描かせました。イエス・キリスト、聖母マリア、そして聖ニコラウスのイコンが完成しますと、テオファヌスは大司教を食事に招き、イコンを渡しました。

 
 
大司教は、イエス・キリストと聖母マリアのイコンは受け取りましたが、聖ニコラウスのイコンには顔をしかめました。「聖ニコラウスはイコンにふさわしくない。このひとの両親はただの田舎者ですよ」と言ったのです。残念に思ったテオファヌスは、聖ニコラウスのイコンは自分の家に飾ることにしました。

 
 
それからしばらくして大司教は、ある島に住む人から娘が病気なので来てくれまいかと頼まれ、小舟ででかけました。途中で大嵐になり、小舟は波にもまれ大司教は海に放りだされてしまいました。大司教は必死で天に助けを求めました。すると現れたのは聖ニコラウスでした。「私は田舎者の息子だが、私の助けでもよいかな?」。大司教は無礼を謝罪し、聖ニコラウスに祈りました。聖ニコラウスは大司教を救い、陸に下ろすと姿を消しました。

 
 
大司教はコンスタンティノープルにもどると、テオファヌスから聖ニコラウスのイコンをもらい受け、聖ニコラウスに奉げる教会を建て、その中心にイコンを飾りました。
 
 
この教会が、ジバーリにあるアヤ・ニコラ教会かどうかわかりませんが、現在もギリシャ正教会の総本山コンスタンティノープル総主教庁が置かれ、多くのひとが巡礼におとずれるイスタンブル(コンスタンティノープル)にあってふさわしい教会であると思います。そして、ギリシャ正教における聖ニコラウスは、子どもの守護聖人よりも船乗りの守護聖人としての側面が強いのかもしれません。

 
 

©suzuki ikuko
2011年当時はギリシャ人の家族が管理人をしていた。自転車はその家族の息子のもの

 
 
アヤ・ニコラ教会の外観は漆喰が塗られ、飾り気はありませんが、内部はギリシャ正教会らしくきらびやかでした。ガイドの説明によると、穹窿(注3)はルネサンス様式の見本と言われ、イコスタシス(注4)や高位の司教が座る座席、説教壇などはバロック、ロココなどのネオクラシックの折衷様式であるとのこと。いく度か火災に見舞われたこの教会は、再建と修復を繰り返しながらビザンツ帝国の時代から同じ場所に建っているのでした。

 
 
思えば、ヨーロッパ各地で聖ニコラウスの信仰が盛んになる以前、ミュラから西へ向かうあいだ、きっとコンスタンティノープルを通過したでしょう。聖人となってからサンタクロースの姿を得るまでに、聖ニコラウスが最初に通過した大都市がコンスタンティノープルだったのかもしれません。

 
 
イスタンブルのアヤ・ニコラ教会を訪れていたのは偶然ですが、ミュラから続けて見てみると、のちに世界へ広がっていく聖ニコラウスの最初の大きな一歩が踏まれた土地であったのかもしれないと思えました。
 
 
(注1)歴史ツアーガイドの説明によると「ヘルラー」と発音する
(注2)ジョゼフ・A・マカラー『サンタクロース物語 歴史と伝説』、伊藤はるみ訳、原書房、2015年
(注3)きゅうりゅう。半球状の天井を繋いだ建築様式。ヴォールトといわれる
(注4)ギリシャ正教会によくみられる様式。聖障。聖所と至聖所を区切るイコンなどで飾られた壁のこと

 
 
 
 
●著者紹介


鈴木郁子(すずき・いくこ)
出版関連の会社に勤務後、トルコへ留学。イスタンブルで、マルマラ大学大学院の近・現代トルコ文学室に在籍し、19世紀末から現代までのトルコ文学を学ぶ。修士論文のテーマは『アフメット・ハーシムの詩に見える俳句的美意識の影響』。
 
帰国後は、トルコ作品、特に児童書やヤングアダルト作品を日本に紹介しようと活動を続けている。トルコ語通訳・翻訳も行う。トルコ文芸文化研究会所属。