デムレの中心地、噴水のある広場のさきに、トロス山脈を背景して「聖ニコラウス教会」があります。教会自体は広場から一段低いところにあるので、広場から見えるのは柵と前庭だけ。しかし、何も見えないことにかえってワクワクします。
入り口にはチケット売り場があり、入場料は30トルコリラ(注1)でした。聖ニコラウス教会は、現在はトルコ共和国文化観光省の管轄です。省のホームページを見ますと、登録の正式名称は「Aziz (St.) Nikolaos Anıt Müzesi(聖ニコラオス記念ミュージアム)」とあります。つまり、教会でありながら文化施設であるということ。ゆえに、ここでの宗教的活動は禁止されていましたが、2011年から、聖ニコラウスの日である12月6日の式典が認められました。2018年にも、イスタンブルにあるコンスタンティノープル総主教会から司教が来て、祈りを捧げたという報道がありました。ギリシャやロシアから多くのキリスト教徒が訪れたそうです。
30トルコリラを払い、道なりに右へ曲がると坂道です。その下に聖ニコラウス教会が建っています。
屋根が傷んでいるそうで、修復が行われていました。
道を下っていくと、入り口です。その前に、聖ニコラウスの像が立っています。前回よく見えなかったお顔はこのようになっています。
聖ニコラウス教会は、ミラの司教をしていたニコラウスが343年(注2)に亡くなったあと、お墓のまわりに建てられたバシリカ(注3)に始まります。8世紀には地震などで大きな被害を受けましたが、9世紀に丸屋根のついた教会として修復されました。1042年には、東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス9世と妻のゾエによって、大規模な修復が行われました。壁のフレスコ画やモザイクなどの多くは、この時代のものです。その後も修復をくり返したため、最初のバシリカからは形が変わっているところも多々あるそうです。
このようなことは前もって頭に入れていきました。しかし、「聖ニコラウスのお墓の上に建てられた教会」に来た、という興奮が先に立ち、思い出す余裕もありませんでした。
入り口を入ると小さな廊下になっています。壁のフレスコ画も床のモザイクも、びっくりするほどきれいに残っています。
ミラは紀元前168年に「リキュア連邦」という連合都市国家を形成した都市のひとつでした。のちにローマの属州となりました。さらにアッバース朝やセルジューク朝といったイスラム王朝に支配され、最終的にオスマン帝国の領土になっています。
イスラム勢力が通り過ぎたあとの教会ですと、モザイク画やフレスコ画の聖人たちの顔の部分が落とされていることが非常に多いです。イスラム教は偶像崇拝を禁じていますから、建物は残しても聖人の顔は消してしまうのです。しかし聖ニコラウス教会は、フレスコ画の多くに顔が残っており、非常に美しい。
わきの回廊を中庭に向かって進みます。この両側の壁に残るフレスコ画も色鮮やかです。Fさんと「いやあ、きれいに残っていますね!」「すごい!」と言いながら、とにかくどんどん写真を撮りました。
残念なことに、この回廊は屋根が落ちているので、上部の絵は半ばで途切れています。屋根があったころにはおそらく、天井までフレスコ画でおおわれていたのだと思います。それでも、私の乏しい知識でも「これは絶対に聖ニコラウスだ!」という人物を見つけることができました。
右側に描かれた船に乗っている、肩から十字架の布をかけた司教服姿の人物が、聖ニコラウスです。聖ニコラウスは子どもの守護聖人として知られていますが、船乗りの守護聖人でもあります。嵐にあった船が今にも沈みそうなとき、船員たちが聖ニコラウスに祈ると助けにあらわれ、海を鎮めたといわれています。
この回廊は決して長くないのですが、フレスコ画の美しさにFさんとふたり興奮し、20分ほど行ったり来たりしていました。そして、「では、そろそろ行きますか」「本番ですね」と、中庭から至聖所のある聖堂へ向かうことにしました。
注1:1トルコリラ=約20円(2018年11月当時)
注2:『黄金伝説』による
注3:古代ローマ建築の集会場(バシリカ)の形式を継承した、初期キリスト教教会堂建築。長方形で、身廊の両側に列柱で隔てられた側廊があり、正面奥に半円形平面のアプシス(アプスとも。半ドーム型の至聖所)を持つ
●著者紹介
鈴木郁子(すずき・いくこ)
出版関連の会社に勤務後、トルコへ留学。イスタンブルで、マルマラ大学大学院の近・現代トルコ文学室に在籍し、19世紀末から現代までのトルコ文学を学ぶ。修士論文のテーマは『アフメット・ハーシムの詩に見える俳句的美意識の影響』。
帰国後は、トルコ作品、特に児童書やヤングアダルト作品を日本に紹介しようと活動を続けている。トルコ語通訳・翻訳も行う。トルコ文芸文化研究会所属。