企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第8回
 

岡山の小さなアパートに、友人が泊まりに来るという。今日は朝から授業だから、せめてその前に小さな花くらいは活けておきたいと、花ばさみをリュックに入れ、5時半に外へ出た。
 
いつもは6時になってから、ラジオ体操目的に神社の境内に向かうのだが、たった30分前に家を出ただけで、街のようすがぜんぜんちがう。昨夜までの雨が上がり、濃い墨汁を空から垂らしたような街の風景。うすぼんやり植物の気配はあっても、そこに花がついているのやら葉っぱが枯れているやらいないやら、見当もつかない。
 
 
どうしようどうしよう。そうだ! リュックから携帯を取り出し、急いでラジオ体操仲間の一人に電話をかけた。
 
 
「もう家を出た?」 
 
「出とらんよ。風邪気味なので今日は家におとなしくいようと思って……」
 
「よかった! じゃあ、お願い、お宅の畑のお花を少しだけ分けて」
 
「ええけど、家に来る道わかるん?」
 
「わかるわかる。大丈夫」
 
 
ところが、大丈夫じゃなかった。小学校の校門の前で立ち往生。確かこのあたりから右に曲がるはずだったと見当をつけ走り進めると、広い畑……のつもりが駐車場。フェンスに囲われてその先は行き止まり。

 
あぁ、一本筋をまちがえたかぁ……とくるり向きを変え引き返そうとしたその時だ。
つーんと、張り詰めた糸のように細く透き通ったにおいが鼻をかすめた。ん? これは?
 
でもその匂いはたちまち流れて消えた。
 
電話が鳴った。

 
「りえちゃん、どこさまよっとるん? うちはもう畑に出て待っとるで」
 
彼女の案内に従って今来た道を戻り、一つ先の角を曲がり直し、再び駆け出す。すると、薄ぼんやり、人影が見えてきた。手を振っている。ごめんごめん、今行きます! と大きく腕を振り上げたその瞬間。ん? なに、この匂い。 
 
朝露を払うようなきりりとした匂い。ほんの少し前に嗅いだあの匂いだ。匂いが細い線のように浮き上がって私と手を振る人影を結ぶ。
 
水仙の花だった。無造作に束ねられた白い水仙の花が友人の手に握られていた。
 
道を一筋超えて、花が匂う。そんなことがあるだろうか?
 
「この水仙、いつ畑で摘んだ?」
 
「え? 今よ今。あなたに電話する数秒前よ」
 
 
やはりまちがいない。あの時だ。あの時、手折られたこの水仙たちは、匂いの悲鳴をあげた。わたしは、水仙乙女たちのその匂いの声を聴いたのだ。瑞々しい立ち姿の奥に彼女たちの感受性の芯が潜んでいたことを思うと、花束を受け取る手が震えた。
 
 
ナルキッソスに恋をした妖精エーコーが、叶うことのなかった恋に絶望して声だけ残し木霊となったというギリシャ神話。エーコーの生まれ変わりのようにひっそり咲いた花が水仙だということを思えば、摘まれるその無念を匂いの声にのせて数百メートル先まで飛ばしたこともうなずける。
 
 
朝が来る前のわずかな時間、人間以外のものたちの存在が、うごめき、こちらに向かってくる。一日はこの時から始まる。太陽からじゃない。そんなことを思いながら、水仙の首を一本たりと折らぬよう、そろりそろりとアパートへ戻った。