主人公で語り手である13歳の少女サラの名前は、ほんとうはサラマンカ・ツリー・ヒドルという。セネカ・インディアンの血を引く母が、自分の一番美しいと思うものを、娘の名前のまん中に入れてくれたのだ。自然のものはなんでも、樹木、乳牛、ムカデ、小鳥、花、バッタ、コオロギ、ガマガエル、タンポポ、ブタ… なんでも好きだった母が、一番愛したのは、サトウカエデの木、シュガー・メイプル・ツリーだった。サラの名前のツリーは、サトウカエデの木なのである。名前の真ん中にあるこの木は、サラの本質を表すものだった。
母もその名前を持っていた。母はいつもシュガーと呼ばれていたけれど、インディアンのことばではチャンハッセン。甘い蜜の木という意味だった。母はよく木の幹にキスしていた。自由で、自然で、美しかった母はなぜ娘のサラを置いて消えてしまったのだろうか。
サトウカエデ、いわゆるメイプルツリーは北アメリカ原産の木で、カナダを象徴する樹木としてその葉は国旗にもなっている。カナダだけではなく合衆国北東部にも多く、州の木となっている。日本の楓より大きく、葉も大きい。幹に穴をあけて樹液を採取し、それを煮詰めて作るのがメイプル・シロップで、さらに煮詰めたものを冷やして固めると、メイプル・ファッジになる。
ローラ・インガルス・ワイルダーはウィスコンシン州で暮らした幼年時代をもとに描いた『大きな森の小さな家』で、お父さんたちがサトウカエデの木々から樹液を取り、シロップを作る作業の様子を描写している。取れたばかりの樹液は、そのまま飲むと冷たくて薄甘い。雪の中に焚火をたいて樹液を煮詰め、それを子どもたちは少しもらって雪の上に落し固めてキャンディのようにして食べていた。
北アメリカの土地に恵みをもたらす大木。シュガーとツリーを名前に持つ母と娘は、よくこの木に祈りを捧げていた。
物語は、サラが祖父母と共に、家を出たまま帰らぬ母を追って、オハイオ州ユークリッドからアイダホ州ルイーストンまで3000キロのアメリカ横断旅行をする、そのドライブ旅行を描いていく。だが、これはただのロード・ノヴェルではない。ドライブの過程で、サラは自分の友達のフィービの家族と、彼女に起こった不思議な事件のことを語る。次々に変わってゆく窓の外の風景と、サラの語りによるフィービの物語がかわるがわる表れて、西へ西へと続く旅はどんどん人の心の原点へと内省してゆく。
フィービと母の物語は、自分と母の物語でもあることを気づいたサラ。変わってゆく風景が心象風景と重なるとき、さらにそれが祖父母の物語でもあるということが明らかになって…。物語の奥底にたどり着いたサラは、父が壊したしっくい壁のうしろに、昔のレンガの暖炉が見つかったときのように、自分の語ってきた物語が三つの物語の交錯であったことを発見する。
自分が追いかけていた母がどうなったかを。同じ「甘い蜜の木」の名前を共有していても、母と自分とは違う存在であることを。そして何よりも、自分が見ることを強く拒絶してきた母の家出の原因を。
タイトルの『めぐりめぐる月』の原題は“Walk Two Moon”、二か月間歩いて見よという意味である。これはインディアンのことわざで、他人のモカシンを履いて月が二度変わるまで歩いてみなければ、その人のことはわからない、ということを示している。他人の心はその人の身になって二か月くらい考えないとわからない。たとえそれが自分の母であっても。
サラの旅には何重にも重なった、木の年輪のような意味の層がある。最後の最後に、サラのモカシンを履いて本を読み終えた読者は、これがサラの服喪の旅であったこと、グリーフワークであったことを知るのである。
第9回