企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第3回

カラギョズとハジバットには、いくつかの伝説や伝承がある。ふたりが実際に存在していたかどうか、いまとなってはわからないが、それぞれが少しずつ似通っているので、人々のあいだで言伝てに広まったものだろうといわれている。それでも、「ふたりのモデルになった人物が実在したかもしれない」と考えるのは楽しい。


カラギョズとハジバットのモデルになった人物は実在したのか。いまのところ研究者たちの意見は「伝承の域を出ない」に傾いている

1 エヴリヤ・チェレビの『旅行記』

エヴリヤ・チェレビ(1611~1682)は17世紀のトルコ人の旅行家で、40年以上にわたり、オスマン帝国領の各地を歩きまわった。旅先で見たものや聞いたことを、『Seyahatname(セヤハットナーメ/旅行記)』という本にまとめた。


エヴリヤ・チェレビの『旅行記』を、子どもたちのためにまとめなおした作品、『七つの世界で東西南北』
(©Can Sanat Yayınları Ltd. Şti./ジャン芸術出版社)

このなかで、影絵芝居『カラギョズ』の歴代名人たちの名前をあげている。また、カラギョズとハジバットを実在した人物として紹介している。
エヴリヤ・チェレビによると、ハジバットの本当の名はエフェリオウル・ハジュ・イバズ(またはエイヴァッド)。ヨルクチェ・ハーリルという名でも知られていた。ルーム・セルジューク朝のトルコ系民族の出身である。ルーム・セルジューク朝というのは、1077~1308年に現トルコのアナトリア地方を中心に支配した、セルジューク朝の地方政権のこと。ハジバットは、このルーム・セルジューク朝皇帝の伝令で、メッカやメディナ(現サウジアラビア)に手紙を運んでいた。ある日、メディナからの戻り道、ダマスカス(現シリア領)で、盗賊に襲われ命を落とす。のちに、ハジバットの愛犬が犯人を捜し出したという。
カラギョズは、エディルネ(現トルコ)近くで生まれたジプシーで、本名をソフィヨズル・バーリ・チェレビといった。ビザンツ帝国総督の馬てい、伝令だった。総督は、カラギョズを年に一度、ルーム・セルジューク朝皇帝のアラーウッディーンにつかわしていた。ある年、カラギョズがセルジューク朝へ書簡をもって訪れたときにふたりは出会い、ユーモアたっぷりに議論を展開した。これを、ある影絵芝居師が劇に仕立て演じたという。
ルーム・セルジューク朝には、アラーウッディーンがⅠ世からⅢ世まで3人いる。統治期間は、3人合わせて1220~1303(もしくは~1308)年。また、カラギョズが仕えていたのはキリスト教君主コンスタンティンという人物であったという説もある。この皇帝を、ビザンツ帝国のコンスタンティノスⅪ世とする研究者もいる。ビザンツ帝国最後の皇帝であるコンスタンティノスⅪ世の統治期間は1449~1453年である。すると、3人のアラーウッディーンの誰とも時代が合わない。


『七つの世界…』のさし絵から。子どもたちのために『旅行記』から選び出された話には、伝説やファンタジーなどが多い
(©Can Sanat Yayınları Ltd. Şti./ジャン芸術出版社)

もし、コンスタンティノスⅪ世を無視してアラーウッディーンだけを考えると、カラギョズとハジバットは、13世紀に存在していたことになる。17世紀のエヴリヤ・チェレビからすれば、約400年前のこと。時代のずれもそうだが、彼の記述は伝承と考えていいだろう。

2 ブルサの悲劇

もうひとつ、民間伝承として広く知られている伝説がある。エヴリヤ・チェレビも、書き残している。
時は、オスマン朝第2代皇帝オルハン・ガーズィーの時代。場所は、現トルコの西北部マルマラ地方の都市・ブルサ。オルハンは、オスマン朝をおこした初代皇帝オスマンⅠ世(オスマン・ガーズィー)の息子である。統治期間は1324年ごろ~1362年ごろだった。オスマンⅠ世のころまでは、オスマン・トルコは、まだ遊牧と略奪を繰り返す部族集団でしかなかった。そもそも「ガーズィー」という称号も「イスラーム世界の最前線で戦う戦士」という意味である。息子オルハンは支配地を広げ、定住民や商人を統治する国家の基盤をつくった。オスマン帝国の実質的な建国者とされる人物である。そして、ブルサを首都に定めた。ブルサは、1453年のイスタンブール(コンスタンチノープル)陥落までオスマン・トルコの首都として機能していた。


「緑のブルサ」といわれる、ブルサの旧市街中心地。左に見える2本のミナーレ(モスクの尖塔)は、ウル・ジャーミーのもの

伝説によれば、オルハン・ガーズィーは、父オスマンのためにブルサに立派なジャーミー(モスク。イスラム教寺院のこと)を建立することに決めた。このジャーミーが、いまもブルサに建つウル・ジャーミーだと言われている。オルハンは、建築家に「速やかに建立を終えよ。遅れれば、首をはねる」と告げる。カラギョズはかじ屋として、ハジバットは左官屋として、建築現場で働いていた。ふたりとも腕のいい職人だった。仲よくなったふたりは、ふざけてこぜりあいをしたり、滑稽なやりとりを繰り返した。他の職人たちがそれに聞き入って、作業はなかなか進まなかった。ジャーミーの建設が遅れていることに怒ったオルハンは、カラギョズとハジバットの処刑を命じ、首をはねさせる。しかし、民衆はこれに反発した。立派な統治者のとるべき行動ではないと各地で批判がささやかれ、オルハンの耳にも入る。オルハンは、自身の行動を後悔し、良心が痛み、具合が悪くなる。


オルハン・ガーズィーの肖像画。これはだいぶ後になって描かれたもの。実際のオルハンは武装集団の隊長だったので、もっと猛々しい武将タイプだったのだろう



オルハンの父、オスマン・ガーズィー。息子の肖像画と同じく、だいぶ後の時代のもの。肖像画の下には、まだ遊牧武装集団であったことを示す天幕が描かれている

それを知った、シェイフ・キュシュテリーというイスラム法学者が、カラギョズとハジバットをよみがえらせようと申し出る。オルハンの許しを得たキュシュテリーは、頭に巻いていた薄い布のターバンを広げてぴんと張り、そのうしろにローソクを灯した。光の前で、自分のはいていた皮靴を人形のように扱いながら、カラギョズとハジバットのかけあいを影絵芝居にしてみせた。これが、影絵芝居『カラギョズ』の始まりである。

この伝説から、『カラギョズ』のスクリーンのことを、今日でも、Küşteri Meydanı(キュシュテリー・メイダヌ/キュシュテリー広場)といい、劇の中で歌われる古典詩(ガゼル)にも、キュシュテリーの名前が読み込まれているものがある。


スクリーンは、ふたりがかりで木枠にしっかりと張り、ずれないように留めつける。この木枠は舞台を組み立ててから最後にはめる


スクリーンがはめられ、完成した舞台。キュシュテリーに捧げる古典詩は次のようなもの。「偉大なるスルタン・オスマンの慈悲のもとに/シェイフ・キュシュテリーの名をとどめるにふさわしい…」


3 伝説の変形

上の2つの伝説をもとに、変形したものもある。
たとえば、オルハンによって首をはねられたのはカラギョズだけで、ハジバットは罪をつぐない、ジャーミーの建立祈願のためにメッカ巡礼に行かされた。それは、ハジバットだけがイスラム教徒だったからである。ハジバットは、託された寄付金をもってメッカに行く途中、金品狙いの盗賊によって殺される。犯人は、犬によって探し出され、処刑された。
このとき、カラギョズは右手であごひげをつかみ、左手をふりたてて抗議をし、ハジバットは両手であごひげをつかんで悲しんだ。それが、そのまま人形のポーズになっているという伝説もある。また、メッカ巡礼を命じられたハジバットは、カラギョズの処刑を悲しみ「友の墓の上に花輪が絶えることがないように」といった。カラギョズの帽子についている花と葉は、この言葉を表しているという説もある。


これが、問題のポーズ。伝説によれば、悲劇の採決が下された瞬間のふたりのようすだ

また、カラギョズがブルサにたどり着くまでの伝説もある。いまのギリシャのトラキア地方出身のカラギョズは、仕事を求めてビザンツ皇帝に謁見する。しかし、仕事がなかったので、ビザンツ皇帝は彼をアラーウッディーンのもとへ送る。しかし、ここでも仕事はなく、彼は現トルコのクルクラーレリに送られる。そうこうしているうちに、ルーム・セルジュークは滅び、オルハン・ガーズィーがブルサを攻略した。そこで、カラギョズは家族を連れてブルサへ向かう。そこで建築用の石をつなげる鉄の部品をつくるかじ屋として働き、問題のジャーミーの建設に関わることになる。なかなか長命なカラギョズである。

*  *

このように、カラギョズとハジバットの伝説は、少しずつ形を変えながら、主にカラギョズ師たちによって伝えられてきた。


カラギョズとハジバットは、タージェッティン氏のような歴代のカラギョズ師たちによって、何度でもよみがえり続けてきた

次回は、悲劇の舞台となった都市・ブルサと、伝説をもとに撮影されたカラギョズとハジバットの映画を紹介する。