私の家はサラリーマン家庭のわりに本が多かったが、とりたてて影響を受けるようなものはなかった。小学2、3年生の時に、漫画版日本の歴史(小学館、全20冊)を読んで火がつき、中学生の頃には先生より日本史に詳しくなるほどで、家系図・地図・年表を眺めて飽きることがなかった。将来は腹いっぱい高校の日本史の教員になるつもりでいたが、高校3年生の時に漢文の面白さに目覚め、中国語中国文学を専攻して現在に至っている。
大学生になって、日本の古典文学や古典芸能にも人並み以上の関心を寄せるようになったが、その際、少年期の読書体験として頭をよぎった1冊が、益田宗(ますだたかし)著『入道殿下の物語』(1979年)であった。平安末に成立した歴史物語『大鏡』の少年少女版で、日本史と古典文学の橋渡しをしてくれた、思い出深い一書だ。今読んでもたいそう面白く、注釈もなくこんなにわかりやすい『大鏡』はないと思うくらいで、しかも原文に沿った流麗な文章でつづられていることに驚いた。著者直筆の「内裏とその周辺」図(237頁)や、赤坂三好の挿画も味わい深い。小学生上級から中学生向きとあるが、当時の児童書のなんと本格的でハイレベルなことか。
著者はいう「古典のことばのひとつひとつを置きかえただけでは、とても古典は解釈できない、(中略)だから古典の解釈とは、結局訳者が、どのようにその時代を理解するかにかかってきてしまう」(259頁)と。栄華を極める人物がいる一方で、その影には政争に敗れ、恨みもだえ、死んでいく人々がいる。著者の執筆姿勢は、『大鏡』が鋭い批判精神を刃に、現代に通じる人間模様を深くえぐった古典であることを示唆している。
最近、王朝史の分野で活躍する、繁田信一氏の一連の著作に惹かれている(『天皇たちの孤独』『かぐや姫の結婚』など)。御一読あれ。
●平井徹(ひらい・とおる)
1972年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学講師。無人島に1冊持っていくなら、迷うことなく司馬遷の『史記』を選ぶ。ここ10年、『老子』を読む読書会を主宰。原典を丹念に読み解くと、訳注書を参照するだけでは見えてこない世界があることを実感している。著書『こころがなごむ漢詩フレーズ108選』(亜紀書房、共著)。
■わたしがくりかえし読む本
『私の中国捕虜体験』駒田信二(1991年)
いろいろ迷ったが、読んでほしいという思いが重なるものとして選んだ。著者(1914~94年)は作家、文芸評論家、中国文学者で、『水滸伝』の翻訳で著名。本書は、著者の講演録を活字化したもの。その想像を絶する過酷な戦争体験は、小説『脱出』にも描かれている。一連の著作には、何者にもおもねらぬ硬骨さとあたたかみのある視点が同居するが、著者の複眼的思考のなせるわざであろう。その死生観は、歿後出版された『死を恐れずに生きる』(1995年)に結実したので、併せて読んでもらいたい。著者が亡くなる前年、恩師村松暎(むらまつえい)の鞄持ちをして、偶然著者にお目にかかれたのが、良い想い出となっている。
●ここに出てくる本
『入道殿下の物語』
●益田 宗/著
●赤坂三好/絵
●平凡社名作文庫
『天皇たちの孤独
王座から見た王朝時代』
●繁田信一
●角川選書
『かぐや姫の結婚
日記が語る平安姫君の縁談事情』
●繁田信一
●PHP選書
『こころがなごむ
漢詩フレーズ108選』
●渡部英喜・平井 徹
●亜紀書房
『私の中国捕虜体験』
●駒田信二
●岩波ブックレット214
『死を恐れずに生きる』
●駒田信二
●講談社