父の弟が亡くなった。父と6つ違いというから、享年81歳でこの世を去ったことになる。私に言わせれば、去ってくれた、である。
幼い頃からこの叔父にはおぞましい思い出しかない。彼が訪れれば、必ず家の中が荒れた。空になった財布を胸に抱いて泣き崩れる母と、弟を庇い母に罵声を浴びせる父の姿。幼かった私にとって、叔父は身震いするほど恐ろしい存在だった。大人になって就職すると、おまえの職場に行って暴れてやるぞと脅された。結婚すれば、夫の会社に金の無心にやって来た。だから、亡くなったという知らせを受けても、ようやく逃れられるという安堵感しかなかった。
しかし、父はひどく悲しんでいた。当然である。何度も何度も裏切られ、裏切られてもまた信じ、家の財産を家族に内緒で横に流し、今度こそまっとうな人間になれと諭し続けてきたのだから。諭しの道半ばで去られた無念を、もろい腰骨だけでようやっと耐えているようで、ベッドに座ったままの姿は痛々しかった。
ひとこと優しいことばをかけてやるべきだとは思ったが、口を開けば幼い頃からの恨みつらみがこぼれでてしまいそうで、「兄としてやれるだけのことを最大限にやり続けたんやから、ええんやないん?」と、それしか言わなかった。
この私の態度は、父に受け入れられなかった。
二日間を置いてから、早朝、主人の弁当を作っている横に来て、「ひとこといわせていただきたいことがある」と、父は重々しく切り出した。
「おまえの考えがどんなものであるかは知らないが、父親の弟が亡くなったのだ。悔やみの一つも言うのが人間のふるまいではないか。この数日間、おまえの人間味あるひとこと、ただひとことでいい、その優しみを待っていたが、それはついになかった」。
私は握っていたフライパンを置いて「は?」と言った。「は?」と息を吐き出したら、いっしょに60年近く抑え込んできた生の感情がこぼれだしてきた。
「私は、とうさんを精一杯なぐさめたつもりよ」
言いながら内心ひやりとした。
(精一杯はほんとうだが、なぐさめる気持ちなど、なかったのではないか?)
「あれ以上のことを言うたら嘘になる!」
父の目の色が変わった。
「なんや?」
どすぐろい脅すような目つき。おおおおお、これは、忘れもしないおじさんの目つきや。次はすごんでくるぞ。私のからだが、3歳の時の震えを取り戻す。
「わりゃぁ、親に向かって、なんちゅうものいいかぁ!」
父ひとり、火の玉と化した。からだの中に鬼の火が膨れ上がり、メラメラと燃えている。そのままの勢いで父は腕を振り上げ、握りこぶしを壁に打ち付けた。
バキッという板の割れる音。壁に真っ黒な穴があいた。一瞬その穴に父の動きは止まったがすぐさま鬼火はその穴の暗さにさらに燃え上がった。
「このやろう、ぶちかましてやる」
叫んだ拍子に父の大きく開いた口から、入れ歯がボロリと零れ落ちた。思わず受け止めてしまった己の掌の入れ歯に戸惑い、「このぉ、このぉ……」ともぐもぐあえぐ父の姿を、残酷な娘はただじっとみつめている。
壁の穴をちらと見て、掌の入れ歯を見て、穴を見て入れ歯を見て、なにをどうすればいいかわからなくなった父は、ついに掌の入れ歯を私に投げつける構えをみせた。
よし、投げてみろ!
私は心の中で叫んだ。
それは、とうさん、あんただ。
ぽっかり壁にあいた穴のなにもない暗さは、今の父のまぎれもない父の正体だ。唯一残っていた父の実体が、今まさに私に向かってなげつけられようとしている。
こい! 投げてこい!
父は入れ歯を握りしめたまま、長い間私の方をにらみつけていた。私は、ひるまなかった。
やがて父は、しゅううっと小さくしぼむように腕を下ろし、そのまま自分の部屋へ入っていった。
流し台に立ち尽くした私と壁の穴だけが、残された。
その日は、仕事に出かけてからも、目に映る光景すべてに実感がなかった。空っぽになったのは、父だけではない、長年の澱んだ感情の苔を腹の底から噴き上げさせた私自身も、その苔の泥臭さで日常感覚が麻痺してしまったようだ。
夕方、勤めていた大学の授業が終わり、はてどうしたものかと頭を抱えた。帰りたくないその場所は、帰らねばならない場所である。そしてそこには、家から出ていきたくても出ていくところがない父がいる。
結局のところ、父と私は同じ穴のムジナだ。
観念した私は、携帯電話のショートメールで
「右手は大丈夫ですか?」と10文字打った。そして、深呼吸してから
「心配しています」の7文字を追加した。
えいっ。送信。
しばらくしてから、返信があった。
「大丈夫。ありがとう」
最後の5文字を打つために父が絞り出したものを想ったとき、壁の真っ黒な穴が、まず今日の所は、ぬるぬるとつぶされていくのが見えた。