痴呆の進んだお年寄りとその家族を支えている岡山の病院で友人がケアマネージャーをしている。「みんな、いちんち暇にしよる。ちょっとでも気持ちを明かるうしてやりてえから、遊びに来て」と頼まれ「おやすいごよう」と絵本を数冊、それに本物そっくりの柴犬のパペットを抱いて出かけることにした。
それは小雨の降るじんめりした火曜日で、足を踏み入れた病院内の壁は、人間の身体から染み出た老廃物やらため息やら痰やらを吸い込んで膨らんでいた。
階段を上がっていくとデイルームから、電子オルガンの音。ちょうど音楽療法の真っ最中だった。若い療法士さんの弾くオルガンのリズムに合わせることなく、骨と皮にひっかけられた鈴が、気ままに、シャリーンシャリーンと響く。
♬あめあめふれふれ もっとふれ
わたしの いいひと つれてこい
シャリーン
つれてこい つれてこい
シャリーンシャリーン
老人たちは、わずかな髪の毛をエアコンの微風にふるわせ、車いすにもたれかかったまま、細い枝のような腕を伸ばして呼び寄せの鈴を鳴らす。
この人たちは、どこに向かって誰を呼んでいるのだろう。あの世に行った連れ合いか? 別れて久しい母親か?
いっしょになって、あめあめふれふれと歌っているうち、だんだん私も、霧のかかった奇妙な森に立っているような気持になってくる。無理に笑顔を作り、老人たちの方へ体を傾けて歌っていると柴犬のパペットがもぞもぞと動き出してくる。
これこれ、しばちゃん、あなたの出番はまだよ。じっとしてなさい。私の手をパペットの中に入れるからこの子が動くはずなのに、なぜか逆にこの子の意思で私の手が動かされている。気づいたら、私のパペット、いやさっきまで私のパペットだったはずのしばちゃんは、隣にいた藤色のブラウスのおばあさんの膝の上でおすわりしていた。
おばあさんが、しばちゃんを乗せた自分の膝の方へゆっくりと視線を落とした。開いたおばあさんの口の中から、色の抜け落ちた紫色の舌がにゅうっと押し出されひっこみ、また押し出された。べろべろばあ。しばちゃんをあやしてくれている。
部屋の中では、次の曲が流れ始めた。けれど、おばあさんには全く聞こえていないようで、ひからびた両手首を動かし、鈴ごとしばちゃんを抱きしめ、なでた。上から下へ。下から上へ。
チリ チリチリ
チリチリチリリ
チリ チリチリ
チリチリチリリ
すると、まわりのおじいさんおばあさんたちが、スローモーションで振り向く。とろんとした力のない眼・眼・眼が、しばちゃんとおばあさん、そして私を見た。語りも光りもしない縮んだなまこのようなくぼんだ眼に囲まれ、私は動けなくなった。
すると、藤色のおばあさんが、しばちゃんをなでながら、そばにいる私にゆっくり顔を近づけてきた。まつ毛が抜け落ち垂れさがった瞼がくっと開かれ、とび色の黒目のまわりがみるみる潤んだ。
「はようこっちにこられえ。ここじゃここ」。
やんわりした声が聴こえたと思った次の瞬間、砂地の底からさらわれるように、私はまるごとなまこの奥へ吸い込まれた。
そこは、なまあたたかい変な部屋だった。
どこもかしこも薄い乳白色の膜がかかったようで、瞼がぱちぱち上げ下ろしされるたびに弱い光が出入りする。おばあさんの眼の中に、こんな空間があったなんて。私はおばあさんの眼の奥からぼんやり外を眺める。
どうやら音楽の時間は終わったようで、療法士さんが歩いて回っている。なにか甲高い声でいろんな人に話しかけている。
そとは、さわがしいですねえ。
私の声にならない声に、誰かが答える。
なあんの、わんちゃんがきてくれたから、どうってこたぁねえ。
おばあさんの声だ。間違いない。私、おばあさんの眼の中でおばあさんとしゃべってる。
ひさしぶりにわんちゃんをだいたよ。おいてきたからねえ。
そうですか、ご自宅に犬をおいてこられたんですか。
あぁ、今頃は家のもんが、わしのかわりにせわしてくれとるじゃろうけどねえ。
きょうは、わんちゃんにあえましたねえ。
そうじゃ。あえたんじゃ。このこはええこじゃええこじゃええこじゃええこじゃあ。
ふしぎな会話は、私と藤色のおばあさんの間でぬくぬくと続いた。
その日は、コミュニケーションが難しいと言われるどのお年寄りとも、隔たりの感じられない穏やかな時間が過ぎて行った。それは、藤色のおばさんの眼の奥に入り込んだ突拍子もない経験抜きにはありえなかっただろう。「同じ眼の高さで向き合いましょう」とはよく聞く言葉だが、向きあうのではなく、相手の眼の中に吸い込まれる体験は、初めてだった。
眼とはなんと深い人と人との交わりの入り口であろう。「眼は口ほどにものを言い」、とか、「眼力」とか、「私の目が黒いうちは……」というように表現ひとつとっても顔のパーツの中で眼は圧倒的な意味を持つ。そういえば、幼い頃「目の中に入れても痛くないほどかわいい」と言われ、目の中になんか入れられてたまるかと、身震いしたが、実際に入れられてみれば、これほど心地よい場所はなかった。もしかしたら、昔から人はこんな風に眼の中にこっそりだれかを招き招かれてきたのかもしれない。
いつのまにかパペットの柴犬に戻ったしばちゃんとふたり、全身じいんとした感じに酔ったまま、病院を後にした。