「幼な心」という言葉で思い浮かべるものは何かしら。
「幼さ」に「無垢」を見いだしたドイツロマン派? 大正時代、雑誌「赤い鳥」に集った作家たちの作品にながれる「童心主義」? ミヒャエル・エンデが『はてしない物語』で描いた舞台、ファンタージエンを統べる「幼な心の君」?
頼りなく、いとけない、美しいもの──そういうイメージが「幼な心」にはあるのでしょう。それはそのまま幼い子どもの姿に重ねられ、美術、文学に表現されてきました。
「幼年童話」という分類のとらえ方
大人が子どもに向けて物語を書く「児童文学」のなかに、「幼年童話」と呼ばれるものがあります。それは、読者を年齢や読書経験などの段階でくぎった“グレード”で本を分類し、カテゴライズした考え方によるもの。ストーリーを耳にして追っていける年齢(4、5歳くらい)から、文字を学習し自分で読めるようになりはじめる年齢(7、8歳くらい。いまはもっと早い時期になるのかも)を対象にして、「読み聞かせ」から「一人読み」への過渡期となる段階(グレード)と理解されています。もしくは、キャラクターがはっきりとしていて、物語の筋がシンプルで、言葉のリズムに心をくだいた文章が特徴となっている児童文学のジャンルを「幼年童話」と分類している本もあります。
グレードを指し、ジャンルでもあるこの「幼年童話」という名称は、漠然としていますが長年この名称で呼び慣らわされており、ほかにいい呼び名もないので、このまま話をすすめたいと思います。
では最初に、作家自身はその「幼年童話」をどのようなものと考え、書いてきたのか──インタビューの言葉から拾ってみましょう。
『くまの子ウーフ』神沢利子の場合
「幼年童話」といえばかならずあげられる『くまの子ウーフ』の作家神沢利子は、こう語っています。
──幼年童話を書くとき、ふしぎなことにどんなにしょげていても、元気なお話を書いているの。どうしてかしらと考えてみると、物語の中では、私はどんなものにもなれる。動物にも、男にも、夕焼けにも。この世の中では一つの自分にとじこもっていなくてはいけない私が、物語の中では多重性を生きられるのね。そして、動物や大空や星がしゃべる世界は、神話の世界でもあると気がついたんですよ。きっと私はその神話的な世界の中で開放されているんだと思いました。*
この言葉を聞いて、鶴見俊輔の対談集『神話的時間』を思い起こす方がいらっしゃるはず。ただコチコチとすぎていく「日常的時間」ではなく、そのものに没入し、そこに自分という存在が息づく時間。それは、お話のなかに浸っている時間かもしれないし、じっと地面をうごめくアリを見つめ続ける時間かもしれない。“そこにある”という感覚を「神話的時間を生きる」といいかえてみれば、幼い子の日常に「神話的時間」と呼べる時を見いだすのは簡単です。耳を澄ませ、じっと見る。ぶつぶつとひとりごとをいう。たいてい、ひとりで機嫌よくすごしているとき、その子のまわりは時がとまったように静謐で厳かです。そういうわが子の姿を目にしたとき、そのまなざしの先をさぐり、耳にしている声を聞きたいと、どんなに思ったことでしょう。でも、それはけっして侵してはならない空間で、彼らの口からいつかこぼれ落ちる言葉を楽しみに待つしかないのです。
幼年期というのは、そうした「ひとり」をふくらませ、満たす時間を欲しているときなのではないかしら。でないと、「外」の世界と関わっていくのに、すぐ疲れてしまう。「ひとり」から「ふたり」、また「ひとり」……何度も「ひとり」にもどってきて、「ふたり」「さんにん」……と“外”の輪を広げていく気力をもらうのだと思います。
『いやいやえん』中川李枝子の場合
1962年に刊行され、新しい幼年童話の誕生と喜ばれた『いやいやえん』。それは、保育の現場から生まれた物語でした。目の前の子どもに語るということを、中川李枝子はこう話しています。
──子どもたちの世界ってほんとに不思議。大人の世界とは全然別の世界に生きているのね。ひとりひとりが何かになりきって、それぞれの世界の中で遊んでいて、約束しているわけじゃないのにここはジャングルだとか海だとか、ちゃんと伝わってる。それは次の瞬間には、パッと平気で現実にもどるの。*
これは、先の神沢利子の言葉に通じる子どもの姿です。没入と解離。子どもたちを間近に見ていたとき、「その切り替えの鮮やかさはなんだろう」と感じていました。幼い子の、満足したときの執着のなさ、いさぎよさといったらありません。
──子どもってそうやっていつも遊んでいるから、今日は何して遊ぼうかなって感じで、私もお話をつくる。ただし私は大人だから、子どもを上まわるような遊びをしなくちゃみっともないでしょ。現実の子どもの遊びは、最後はめちゃくちゃになって、泣いたりわめいたり、喧嘩になって、ハッピーエンドにはならないの。だから、大人の私がきちんとしめくくる。お話の中でも同じで、最後は喧嘩にしないで、ちゃんと行き着くところに行ってみせて、どうだって、言いたいわけね。*
「ひとり」であればふっと満足したときに戻って完結する時間が、ほかの子といっしょにすごすとなれば、気持ちがぶつかり、いつもみんなが満足して遊びの時間から戻ってこられるわけではありません。それを解消するのが、「お話」だったということなのでしょう。毎日の遊びから「お話」の種をひろいあげ、それを聞き手とともに育ててきたのが、園での「神話的時間」といえそうです。
それは、同じものを耳にしながらも個々の子どもたちのなかでそれぞれの絵で描き直され、心にしまわれます。共有しつつも独自なものとして体験される時間は、「ひとり」の時間とはちがった広がりと陰影を生じさせたはず。
「ひとりの時間」のなかで
幼児における「ひとりの時間」と「集団の時間」のどちらが大人にとって近しく思いかえせるかといえば、「ひとりの時間」のほうではないかしら。「集団の時間」は、その場にいたとしても、その世界に子どもとともに入り込んで大人として遊びに徹するのはたいへんエネルギーのいるものです。物語にしても、同様かもしれません。
「幼年童話」と呼ばれるもののなかには、子どもには受けるのに大人にはそのおもしろさがわからない、子どもにとってその時期に出会わなければ楽しめない物語があり、それを清水真砂子は「通過型の本」と呼んでいます。また、何度も立ち返って読み返すことで“読み”が変わってくる本を「同伴型の本」と呼び、大人の読者はどうしても「同伴型の本」を評価してしまいがちだとも語っています(『子どもの本とは何か』)。「ひとりの時間」を描いた幼年童話には、「同伴型の本」と称されるものが多いといえるかもしれません。
『くまの子ウーフ』の「ウーフはおしっこでできているか」は、卵は白身と黄身でできている、イスは木でできていて、新聞は紙でできている……とお父さんに教えてもらって、ウーフが大得意になるところから始まります。
毎日卵を産んでくれるめんどりは「卵」でできていると発見(?)して話すウーフに、きつねのツネタくんは「めんどりはガラと、肉と羽でできてるのさ」といい、「めんどりはたまごをうむ。だけど、ウーフはうまないよ。かわりにからだからだすのはおしっこさ。ウーフはおしっこでできている」と、ウーフの論理を逆手にとっていい放ちます。
その後、ウーフは混乱して、ツネタくんにとびかかったり、転んでけがをしたりするのですが、この部分に幼児の存在不安を見て、そのむこうに作者のもつ「人そのものの存在不安」を二重うつしに感じとる大人の読者は、たしかにいることでしょう。
「自分は何でできているのか」と問うのは哲学の問題に通じるもの。『子どもと哲学を 問いから希望へ』(森田伸子)に書かれているように、そんな幼い子どものあどけない問いが自分と自分の生きる世界への無条件な信頼から発せられていることを、『くまの子ウーフ』は物語全体で表現しています。一時混乱しても、ウーフはウーフの身体感覚で自分を認め、「ウーフはウーフでできている」とうれしそうに宣言するのですから。その姿を見て子どもはにっこり安心し、大人はその明快さにあこがれるのかもしれません。
「あしたっていつ?」「おばあちゃんはいつ死ぬの?」「空はどこまでつづいてるの?」……時間について、空間について、始まりと終わりについて、ふっと口からこぼれおちる無防備な問いは、本質的ではあるけれど、幼い子どもはその答えの追求には拘泥せず、日常へと戻っていき、また思い出したように問いかけます。その軽やかさ、柔軟さが、大人にとって幼年期の子どもが輝いて見える理由でしょうか。そこに“詩”を見る人もいるかもしれません。
私が「子ども」や「幼年童話」について考えるとき、何度も読み返す本があります。それは、『幼い子の文学』(瀬田貞二、1980年)と『幼年期の子どもと文学』(安藤美紀夫、1981年)の2冊。どちらも1980年代はじめの刊行ですが、『幼い子の文学』は、1976年から図書館員のための講座で語られたものを、1979年に著者が亡くなったあとテープと速記録から読みとって活字にしたものなので、刊行より3、4年早くに手がけられたのではないかと考えられます。ともに子どもの本の翻訳家であり、創作もし、大学で研究、教育、評論にも携わっていたふたりだからこその目配りで幼い子どもと物語や本との関わりをコンパクトにまとめていて、いま読んでも少しも古びていません。
『幼い子の文学』での紹介
『幼い子の文学』では、「幼年物語の展開」の章でイギリスのBBCのラジオ放送の果たした役割について述べているところが興味深い。1950年から1982年まで続いた“Listen With Mother”は、平日の午後1時45分からの15分間、5歳以下の子どものための物語と歌や童謡が放送され、その物語をまとめたお話集もたくさん刊行された人気番組でした。何人もの作家が番組内の物語を担当しましたが、日本ではドロシー・エドワーズ(「きかんぼのちいちゃいいもうと」シリーズ、渡辺茂男訳)とルース・エインズワース(『チャールズのおはなし』上條由美子訳)がよく知られています。
本書では、ドロシー・エドワーズを耳で聞いて楽しむお話の代表として紹介し、「幼い子どもの生活やその子なりの論理をきちんととらえ、それを体に快くリズムが伝わる形式の文章で語っているのが魅力」とまとめています。また、「子どもの想像のなかに現れる世界を短い文章で平明に表現しているところがおもしろい」とも。それはそのまま、中川李枝子の物語世界を評しているように読みとれました。
ルース・エインズワースでは、いくつかのお話の構成を説明しつつロジカルに段取りを重ねていって、そのなかでイメージを展開させ、かなり深い内容(心情)まで伝えていることを、「文学としての結晶構造」をもっているかどうかという視点で読み解いています。思いつきやイメージに引きずられて展開するのではなく、どのように展開していけば幼い子が納得しながら物語と伴走できるかを考え抜いて物語を書いているのだと。それは、ビアトリクス・ポターが“もの”に即したリアリティのある世界のなかで物語を語り、アリソン・アトリーが、どんなに小さな子への物語であっても、そこにある種の生きることの真実を織り込んで語ってきたことを継承し展開してきた、イギリス児童文学の底力を感じさせます。
『幼年期の子どもと文学』での考察
『幼年期の子どもと文学』では、まず幼児が本に出会うときを考察しています。子どもにとって「本を読む」という行為がどういうことなのかを、言葉と絵の両方から見ているのがおもしろい。子どもの生活全体のなかで「子ども」と「本」との関係性をとらえ、そこに「物語」を置いて考えているのが、『幼い子の文学』との大きなちがいでしょうか。また、絵本の表現の歴史を大づかみにし、物語に絵をそえて表現する絵本から「絵」そのものを視覚言語として物語る絵本が増えていることも指摘し、「物語を読む」という意味の多様性に目を向けています。
「わが国の幼児と童話」の章では、日本の幼年童話の流れを戦前から戦後までおいかけることで、「短詩型文学としての幼年童話」という見方を提示し、それが読者対象とされた子どもと共有されるものであったかどうかを検討しています。そのうえで、「戦後日本の幼年童話」として1960年代に始まる新たな試みと1970年代に続く広がりを評価しながらも、1980年当時における幼年童話の状況を、「類型化された安易な作品の量産」と憂えています。それは1990年代の「幼年童話の新しい潮流」(野上暁『越境する児童文学』)が出てくるまで続き、その後、幼年童話の本が量産されるものの、また安藤が書いていたのと同様の危惧を野上も書き記すことになるのですが……。
“I can read book”のもたらしたもの
『幼い子の文学』や『幼年期の子どもと文学』で、「子どもにとって初めての物語は、読んでもらう“耳で聞く物語”である」ということは、共通の認識となっているようです。たしかに、本が存在する以前から物語は人とともにあり、みんな聞いて楽しむ「声の文化」「語りの文化」を享受してきたのですから、あたりまえのことだといえるでしょう。
1950年代半ば、「学校で文字を習いはじめた子どもが、“自分ひとりで本を読みたい”と願っているにもかかわらず、適当な本がない」という図書館員の意見を聞いてつくられたのが、アメリカのハーパー&コリンズ社が刊行する“I can read book”でした。
『伝説の編集者 ノードストロムの手紙』(レナード・S・マーカス編、児島なおみ訳)にもありますが、アーシュラ・ノードストロムがシリーズの1作目として編集したのが、「こぐまのくまくん」シリーズ(ミナリック作、センダック絵、松岡享子訳)です。つぎにシド・ホフの『きょうりゅうくんとさんぽ』が刊行されました。現在、このシリーズはワード数で5つのグレード(段階)に分けた200を超えるタイトルをもち、新刊も次々に出しています。アーノルド・ローベルの「がまくんとかえるくん」のシリーズ、クロケット・ジョンソンの「ハロルド」シリーズ、エスター・アベリルの『しょうぼうねこ』などが日本ではよく知られています。このヒットを見て、スカラスティック社なども同様のシリーズの刊行を始めました。
“I can read book” の特徴のひとつに、ワード数のいちばん少ない「レベル1」では、絵本やコミックで仕事をしてきた作家の作品が多いということがあげられます。モーリス・センダックやクロケット・ジョンソンなどは、64ページの展開を、絵本の絵の密度で描いたり、コミック的なアイデアをそのまま広げて構成したりしています。ワード数が少なくなればなるほど絵に語らせる比重が大きくなり、絵本に近いつくりとなってくるのは必然でしょう。
また、アーノルド・ローベルは、絵を文字に組み込んで絵入りのテキストページをつくったり、短いお話をいくつか入れた連作物語を1冊にしたりと、それぞれのお話のテイストに合わせて自由にページを展開した本をつくっています。
この自在さは、1990年以降に刊行された日本の幼年童話シリーズ「どうわがいっぱい」に通じるものがあります。それは、絵本やローベルのシリーズなどを読んできた絵本作家やイラストレーター、編集者たちが知らず知らずに体得してきた感性の現れなのかもしれません。また、コミックのコマ割りのリズムも、無意識に影響しているように思います。ヴィジュアル表現に長け、それを読むスキルも身につけた世代が手にとりやすい本の“かたち”を意識した先駆けであったといえるでしょう。
ふたつめの特徴としては、人気のキャラクターの本を出し続けるスタイルを確立したこと。以前から(「大草原の小さな家」シリーズなど)物語のシリーズ展開をしてきたハーパー&コリンズ社でしたが、"I can read”では本の主人公をキャタクターとして明確に意識し、その物語世界をそのままに新しいストーリーを提供することで、子どもたちの興味と満足をひきだしています。
まだ文字を追うことに汲々としている子どもにとって、本のなかに見知った世界が待っていることは、それだけで「本を読む」という行為の敷居をさげてくれるといえるでしょう。
「こぐまのくまくん」や「がまくんとかえるくん」は作品の評価の高さから続編を続けていったようですが、「Amelia Bedelia」シリーズや「Biscuit」シリーズなど最近の作では、キャラクターとしての認知度の高さが大きいように思います。これもまた、1960年代以降の日本の幼年童話の刊行に通じます。
幼い子の心性として、安定・安心を好むところがあり、新たな物語世界に対峙するよりもようすのわかった世界のなかでちがった体験をするのがおもしろいと感じるのでしょうか。
ジャンルとしては、それを続けることで作品点数は多くなりますが、内容が貧弱化し、幼年童話の世界そのものが停滞してしまう……ということにもなっていきます。
文字を習得しはじめた子どもは、まず声に出してテキストを読みます。それは、まだ耳で物語を聞くスタイルを残しているのだとはいえないでしょうか。自分の声を聞きながら物語に入っていく……。黙読できるようになってもなお、文章を文字の連なりでなく音として意識した読み方をしている子もいるでしょう。「子どもは、声と文字のせめぎあいのなかで自分の読むスタイルを獲得し、決定しているのだな」と、わが子が本とすごす姿を見てきて思いました。そのときどきに合わせて手にとりやすい本のかたちがあり、それを選びとれる環境と目をもってほしいと願っています。
「幼な心の文学」を核として
現在、「幼年童話」は商業的な区分けになり下がっているように思われます。この連載のなかでは、それをあえて「幼な心の文学」と命名することで、幼い子どもに向けた物語を、あまりにも対象が広がり意味するところが曖昧になっている「児童文学」の「核」として見据えていきたいと考えています。
自分と他者がまだまだ未分化な存在。幼稚園、保育園、学校など、初めて社会と出会い、とまどう姿。思考よりも体感で物事をとらえようとする時期。「児童文学」を書くことで作家が獲得したのは、「子ども」という低い目線でこの世の中を見直す、もうひとつの窓です。それは、「くまの目」で人の世を見ることや「かえるの目」で空を見ることにもなり、詩人が何でもない日常から言葉で切りとって見せてくれることで、いままで見えてなかったものが立ち表れてくるということにも通じるのでしょう。
その輝きがシンプルな言葉と物語で手渡される本をとりあげて、魅力の源を見つけだしていきたいと思います。
*神沢利子、中川李枝子の発言は、『母の友』2000年1月号 特集:幼年童話から子どもが見えてくる―①より
●ここに出てくる本
『はてしない物語』
●ミヒャエル・エンデ/作
●上田真而子・佐藤真理子/訳
●岩波書店
『くまの子ウーフ』
〈くまの子ウーフ童話集〉
●神沢利子/作
●井上洋介/絵
●ポプラ社
『神話的時間』
●鶴見俊輔/著
●熊本子どもの本研究会
『いやいやえん』
●中川李枝子/作
●大村百合子/絵
●子どもの本研究会/編
●福音館書店
『子どもの本とは何か』
〈かわさき市民アカデミー講座
ブックレット17〉
●清水真砂子/著
●シーエーピー出版
『子どもと哲学を
問いから希望へ』
●森田伸子/著
●勁草書房
『幼い子の文学』
●瀬田貞二/著
●中公新書
『幼年期の子どもと文学』
●安藤美紀夫/著
●国土社
『ぐらぐらの歯』
〈きかんぼの ちいちゃい いもうと その1〉
●ドロシー・エドワーズ/作
●渡辺茂男/訳
●酒井駒子/絵
●福音館書店
『チャールズのおはなし』
●ルース・エインズワース/著
●上条由美子/訳
●菊池恭子/絵
●福音館書店
『越境する児童文学
世紀末からゼロ年代へ』
●野上暁/著
●長崎出版
『伝説の編集者
ノードストロムの手紙』
アメリカ児童書の舞台裏
●レナード・S・マーカス/著
●児島なおみ/訳
●偕成社
『こぐまのくまくん』
〈はじめてよむどうわ1〉
●E・H・ミナリック/文
●モーリス・センダック/絵
●まつおかきょうこ/訳
●福音館書店
『きょうりゅうくんとさんぽ』
〈はじめてひとりでよむ本〉
●シド・ホフ/作
●いぬいゆみこ/訳
●ペンギン社
『ふたりはともだち』
●アーノルド・ローベル/作
●三木卓/訳
●文化出版局
『はろるどのふしぎなぼうけん』
●クロケット・ジョンソン/作
●岸田衿子/訳
●文化出版局
『しょうぼうねこ』
●エスター・アベリル/作
●藤田圭雄/訳
●文化出版局
『おさるのまいにち』
〈どうわがいっぱい〉
●いとうひろし/作・絵
●講談社
『大きな森の小さな家』
〈インガルス一家の物語1 〉
●ローラ・インガルス・ワイルダー/作
●ガース・ウィリアムズ/絵
●恩地三保子/訳
『大草原の小さな家』
〈インガルス一家の物語2 〉
●ローラ・インガルス・ワイルダー/作
●ガース・ウィリアムズ/絵
●恩地三保子/訳
「Amelia Bedelia」シリーズ
「Biscuit」シリーズ