第5回
旅行中、こんな会話を耳にしました。
Aさん「『ふしぎの国のアリス』を書いたルイスと“ナルニア”を書いたルイスがちがう人だって、はじめてわかったよ」
Bさん「それがわかっただけでも、旅行に参加してよかったね」
私も、Aさんのためによかったと思いました。ルイス・キャロルとC・S・ルイス──私は二人が別人だとは知っていますが、同じルイスが名前にも苗字にもなるということがなんだか腑に落ちず、Aさんの気持ちもわかるような気がしました。
オックスフォードは、二人のルイスにとって生活の場であると同時に、創作を生み出す場でもありました。街のあちこちを訪問すると、二人のルイスに縁のものが交錯して、どちらのルイスか混乱してしまうこともしばしばありました。まずは、ルイス・キャロルから。
『ふしぎの国のアリス』は、キャロルが、アイシス川の舟遊びで、アリスたち3姉妹に語って聞かせた話から生まれました。
アイシス川はテムズ川の別名で、いまもあちこちに色鮮やかなボートが係留され、観光客を誘っています。街中を走る川ですから、橋の下を何度もくぐることになります。橋の下をくぐってのボート遊びなんて、小さいアリスたちには、どきどきする冒険だったにちがいありません。そのうえ、ドジソンおじさんがわくわくする話をしてくれるんですから、いうことなし。
アリスたちは、このゴドストウ橋まで川をのぼり、土手に上陸します。天候に恵まれたアリスたちには「黄金色の午後」だったのですが、私たちには雨の午前になりました。
ゴドストウ橋の目の前に、僧院の廃墟が残っています。火事で焼けて黒く汚れた石壁。年代を見ると、アリスたちがここにきたときもこの状態だったようです。晴れた「黄金色の午後」のイメージが、すこし陰りを見せたように感じました。
キャロルが教鞭をとり、生活をした、クライスト・チャーチ・カレッジです。アリスの一家もここに住んでいました。父親は学寮長で、石像が建てられるほどカレッジに貢献した人でした。
立派な学寮長としてよりも、アリスの父親として見上げられる毎日をどう思っているでしょうか?
アリスの母親は、独身でうだつのあがらないキャロルに警戒心を抱き、舟遊びに家庭教師を同行させます。そんな監督つきでは、当然、おもしろさは半減してしまいます。さらに、母親はキャロルに子どもたちと会うことを禁止しますが、それが『ふしぎの国のアリス』の本を書くきっかけになりました。キャロルはアリスの希望でお話を本にしたからです。
キャロルが、当時児童文学作家として名を成していたマクドナルドに出版を相談すると、アリスの原稿を読んだマグドナルドの息子が「ぼくなら6000部印刷する」といったそうです。まことに子どもの目は鋭い。
オックスフォードの街並みは、どこを撮っても絵になります。ことに自転車が似合います。
ポストも歴史を感じさせます。左右は手紙を投函するようですが、真ん中は小包と新聞とあります。口が小さいし、何を送れるのか、ちょっと謎。
続いて、C・S・ルイスが教鞭をとったモードリアン・カレッジへ。美しい緑の庭と不思議な石像たちが迎えてくれました。
『ライオンと魔女』の石像の群れの場面は、ここから着想を得たといわれています。1頭1頭見ていくと、どれも尋常ならざる生き物。人間に近い不気味な生き物もいます。
ポターやランサムの作品舞台を見ると、「ああ、たしかにここには物語の世界がある」とわかるのですが、ナルニアにはイギリスの景色を見ても「ここだ」と思いあたるところはありませんでした。実際の景色より、挿絵がいちばんいい道しるべになっているのかもしれません。そんななかでこの石像群だけは、たしかにルイスの創作の種になったと納得できました。
窓越しに、石像たちの写真を撮ってみました。ルイスも見た景色にちがいありません。
構内にはアディソン・ウォークと呼ばれるアイシス川沿いの小道があり、そこをいくと、鹿が放牧された牧場を通って、橋に着きます。橋には、ルイスの詩「年の初めに鳥が語ったこと」の石碑があります。
ルイスが兄さんと晩年をすごした家。花と緑に囲まれた美しい家です。いまではナルニアに関するワークショップなどが開かれているそうです。
ルイスのお墓です。私たちがいったときには、お墓の下方に、ビニール袋に入ったファンからの手紙がそっと置かれていました。もしも子ども時代の私が、自分が大人になってルイスのお墓の前に立つということを知っていたら、まちがいなく同じことをしたいと思うでしょう。
ルイスの眠る教会には白いステンドグラスがあり、じっと見ていると、ナルニアのさまざまな場面が浮かびあがってきます。アスラン、フクロウの背に乗るジル、剣、朝びらき丸、ポリーとディゴリーを乗せた天馬、角笛、ケア・パラベル、一角獣、物言うクマ、リーピチープ、ビーバーさん、弓矢……。白いステンドグラスははじめて見ましたが、かえって自由に想像を広げられ、外の緑が自然なアクセントにもなって、物語にぴったりでした。
私たちは幸運にも、ルイスが、後に結婚したジョイと会った縁のホテルに泊まりました。ルイスとジョイの出会いと永別を描いた「永遠の愛に生きて」の映画の撮影にも使われたそうです。
ホテルの、私たちの部屋から見える景色です。ここに2泊しましたが、夜になると不思議な光景が浮かびあがるのです。白い螺旋階段のある建物の窓に煌々と明かりがともり、部屋の中が手にとるように見えます。部屋には家具も人影も何もなく、ただ白い椅子が1脚、中央にぽつんと置かれています。いまにも誰かが現れて、何かが始まりそうな予感。私たちは、よくよく気をつけて見張っていましたが、とうとう何も目撃できませんでした。真夜中まで起きていれば、『銀の椅子』ならぬ「白い椅子」の物語が始まったのかもしれませんね。
Aさん「『ふしぎの国のアリス』を書いたルイスと“ナルニア”を書いたルイスがちがう人だって、はじめてわかったよ」
Bさん「それがわかっただけでも、旅行に参加してよかったね」
私も、Aさんのためによかったと思いました。ルイス・キャロルとC・S・ルイス──私は二人が別人だとは知っていますが、同じルイスが名前にも苗字にもなるということがなんだか腑に落ちず、Aさんの気持ちもわかるような気がしました。
オックスフォードは、二人のルイスにとって生活の場であると同時に、創作を生み出す場でもありました。街のあちこちを訪問すると、二人のルイスに縁のものが交錯して、どちらのルイスか混乱してしまうこともしばしばありました。まずは、ルイス・キャロルから。
『ふしぎの国のアリス』は、キャロルが、アイシス川の舟遊びで、アリスたち3姉妹に語って聞かせた話から生まれました。
アイシス川はテムズ川の別名で、いまもあちこちに色鮮やかなボートが係留され、観光客を誘っています。街中を走る川ですから、橋の下を何度もくぐることになります。橋の下をくぐってのボート遊びなんて、小さいアリスたちには、どきどきする冒険だったにちがいありません。そのうえ、ドジソンおじさんがわくわくする話をしてくれるんですから、いうことなし。
アリスたちは、このゴドストウ橋まで川をのぼり、土手に上陸します。天候に恵まれたアリスたちには「黄金色の午後」だったのですが、私たちには雨の午前になりました。
ゴドストウ橋の目の前に、僧院の廃墟が残っています。火事で焼けて黒く汚れた石壁。年代を見ると、アリスたちがここにきたときもこの状態だったようです。晴れた「黄金色の午後」のイメージが、すこし陰りを見せたように感じました。
キャロルが教鞭をとり、生活をした、クライスト・チャーチ・カレッジです。アリスの一家もここに住んでいました。父親は学寮長で、石像が建てられるほどカレッジに貢献した人でした。
立派な学寮長としてよりも、アリスの父親として見上げられる毎日をどう思っているでしょうか?
アリスの母親は、独身でうだつのあがらないキャロルに警戒心を抱き、舟遊びに家庭教師を同行させます。そんな監督つきでは、当然、おもしろさは半減してしまいます。さらに、母親はキャロルに子どもたちと会うことを禁止しますが、それが『ふしぎの国のアリス』の本を書くきっかけになりました。キャロルはアリスの希望でお話を本にしたからです。
キャロルが、当時児童文学作家として名を成していたマクドナルドに出版を相談すると、アリスの原稿を読んだマグドナルドの息子が「ぼくなら6000部印刷する」といったそうです。まことに子どもの目は鋭い。
オックスフォードの街並みは、どこを撮っても絵になります。ことに自転車が似合います。
ポストも歴史を感じさせます。左右は手紙を投函するようですが、真ん中は小包と新聞とあります。口が小さいし、何を送れるのか、ちょっと謎。
続いて、C・S・ルイスが教鞭をとったモードリアン・カレッジへ。美しい緑の庭と不思議な石像たちが迎えてくれました。
『ライオンと魔女』の石像の群れの場面は、ここから着想を得たといわれています。1頭1頭見ていくと、どれも尋常ならざる生き物。人間に近い不気味な生き物もいます。
ポターやランサムの作品舞台を見ると、「ああ、たしかにここには物語の世界がある」とわかるのですが、ナルニアにはイギリスの景色を見ても「ここだ」と思いあたるところはありませんでした。実際の景色より、挿絵がいちばんいい道しるべになっているのかもしれません。そんななかでこの石像群だけは、たしかにルイスの創作の種になったと納得できました。
窓越しに、石像たちの写真を撮ってみました。ルイスも見た景色にちがいありません。
構内にはアディソン・ウォークと呼ばれるアイシス川沿いの小道があり、そこをいくと、鹿が放牧された牧場を通って、橋に着きます。橋には、ルイスの詩「年の初めに鳥が語ったこと」の石碑があります。
ルイスが兄さんと晩年をすごした家。花と緑に囲まれた美しい家です。いまではナルニアに関するワークショップなどが開かれているそうです。
ルイスのお墓です。私たちがいったときには、お墓の下方に、ビニール袋に入ったファンからの手紙がそっと置かれていました。もしも子ども時代の私が、自分が大人になってルイスのお墓の前に立つということを知っていたら、まちがいなく同じことをしたいと思うでしょう。
ルイスの眠る教会には白いステンドグラスがあり、じっと見ていると、ナルニアのさまざまな場面が浮かびあがってきます。アスラン、フクロウの背に乗るジル、剣、朝びらき丸、ポリーとディゴリーを乗せた天馬、角笛、ケア・パラベル、一角獣、物言うクマ、リーピチープ、ビーバーさん、弓矢……。白いステンドグラスははじめて見ましたが、かえって自由に想像を広げられ、外の緑が自然なアクセントにもなって、物語にぴったりでした。
私たちは幸運にも、ルイスが、後に結婚したジョイと会った縁のホテルに泊まりました。ルイスとジョイの出会いと永別を描いた「永遠の愛に生きて」の映画の撮影にも使われたそうです。
ホテルの、私たちの部屋から見える景色です。ここに2泊しましたが、夜になると不思議な光景が浮かびあがるのです。白い螺旋階段のある建物の窓に煌々と明かりがともり、部屋の中が手にとるように見えます。部屋には家具も人影も何もなく、ただ白い椅子が1脚、中央にぽつんと置かれています。いまにも誰かが現れて、何かが始まりそうな予感。私たちは、よくよく気をつけて見張っていましたが、とうとう何も目撃できませんでした。真夜中まで起きていれば、『銀の椅子』ならぬ「白い椅子」の物語が始まったのかもしれませんね。
●今回のお話に関係する本
『ふしぎの国のアリス』
●ルイス・キャロル/作
●ジョン・テニエル/絵
●生野幸吉/訳
●福音館古典童話シリーズ
『ライオンと魔女』
〈ナルニア国ものがたり1〉
●C・S・ルイス/作
●ポーリン・ベインズ/絵
●瀬田貞二/訳
●岩波書店