第3回
私の知人で、不思議な力をもっている人がいます。その人は田舎で古い家に住みはじめたのですが、しばしば裃をつけた武士が部屋を横切っていくのが見えるというのです。知人は「気持ちが悪い」というけれど、私はうらやましくてなりません。だって、時をはさんで昔の人と、1つの家を共有しているということでしょう? それって、まるでアリソン・アトリーの作品『時の旅人』の世界のようではありませんか。
* *
湖水地方で3日間をたっぷり過ごした後、私たちは南下して、その『時の旅人』の舞台となったダービシャーに入りました。
病弱なペネロピーは、姉兄とともに、ダービシャーにある大おばのサッカーズ農場へ転地療養にいきます。そこは、何百年も昔、バビントン一族が住んでいたお屋敷でした。16世紀、アンソニー・バビントンは、スコットランドのメアリー女王を救出する計画に連座して絞首台にのぼり、お屋敷は分割されてしまったのです。
ペネロピーは、この古いサッカーズ農場で今と16世紀をいったりきたりして、バビントン一族と心を通わせながら、その悲劇を見守ります。
サッカーズ農場のモデルのマナー・ファーム。元BBCのディレクターというご夫妻がいまも住んでいらっしゃって、はるか東方からやってきた私たちを歓迎してくださいました。やや黄色味を帯びた石をたがいちがいに組んでいて、同じ石造りでも湖水地方とはちがいます。
家の中に入ると、そこは台所。暖炉と大きなテーブルがあります。
ペネロピーが迷い込んだ16世紀の台所では、シスリーおばさんが絶え間なく手と口を動かしながらケーキやパイをつくり、女中たちが卵をかきまわしたり掃除をしたり、暖炉の火で男の子が焼き串をまわしたりと、大勢が立ち働いています。先が見えないくらい大きい部屋を想像していましたが、意外と小さい。ここだけでなく、ポターのヒルトップ農場の住まいやワーズワースのダブコッテジの中に入ってみて、イギリスの部屋は小さいという印象をもちました。ダブルベッドなど、立派な天蓋がかかっていてもとても小さくて、ここに2人で寝るのはきつそうだなあと思えました。
暖炉の上の金具。自在鍵のようにここに何かを架けるのでしょうか?
石の壁と木製の梁が組み合わさっています。
この暖炉の前に、いったいどれだけの数の人が立ったのでしょう。その人たちと時を超えてこの暖炉を共有することができたら、たとえほんの一瞬でも体験できたらと想像せずにはいられません。
メアリー・スチュアートは、華やかな一方、悲劇的な生涯を遂げたスコットランドの女王です。16歳でフランス皇太子と結婚し、フランス王妃となり、栄華を極めますが、夫の死により母国に帰ります。しかしそこは彼女にとって安住の地ではありませんでした。宗教問題や血で血を洗う政争に巻き込まれ、二度の結婚と目の前で夫が殺害されるという惨劇を経験したのち、エリザベス一世が統治するイングランドに逃れます。しかし、国の内外には、メアリーこそが、イングランドの正しい王位継承者だとする主張があり、不安を抱いたエリザベス女王は、メアリーを捕らえると19年ものあいだ幽閉します。そして1587年、エリザベス女王暗殺の陰謀に加担したとして、ついに処刑します。
幽閉中のメアリーを救出しようとしたのが、アンソニー・バビントンでした。物語の中で、アンソニーは、近くのウィングフィールドのお城に住んでいるメアリーを救おうとトンネルを掘ります。
庭には、いわくありげなトンネルが残っていて、私たちは一人ひとり、この枯葉の落ちた石段から身を乗り出して中をのぞきました。ワインセラーとして使われたとも、カトリックの隠れ家であったとも、メアリー女王救出に使われたとも諸説あるということですが、奥から立ち昇ってくる冷気に触れると、これはやっぱり!と思わずにはいられません。アトリーもきっと子どものころからこのトンネル跡を見て、メアリー・スチュアート救出作戦へと想いをめぐらしたことでしょう。
農場の裏手には、春と夏と秋が共有しているような庭がありました。カタクリとリンゴ(甘酸っぱくておいしい)がこんな具合に並んで、私たちを迎えてくれました。
農場のすぐ裏には、バビントン家の教会が建っています。アンソニーがメアリー女王からもらった大切なロケットをなくし、300年以上後に、ペネロピーがロケットを見つけた教会です。脇には大きなイチイの木がそびえ、塔には物語に書いてあったように盾型の紋章があります。私たちがいったときには、風が雲を呼び、一瞬のうちにあたりを明るくしたり暗くしたり、雲が盛んに光を切り替えていました。
メアリー女王が幽閉されていたウィングフィールドのお城の廃墟です。ペネロピーは、一度は16世紀に、花束をもってメアー女王に会いにいきます。そして二度目に母親と出かけたときに、ウィングフィールドが廃墟となったことにショックを受け、「だれが、こんなにこわしてしまったの?」と悲しく叫びます。私たちが見たのも廃墟となったお城で、サンザシやスグリやヤブ草が生い茂る山道をひたすらのぼって、たどり着いたのです。
旅行の最終日に、ロンドンのチェルシーの街を歩いていたときに、本屋さんを見つけて入りました。私たちが旅で巡った物語がちゃんと並んでいるし、絵本のコーナーには日本でおなじみの絵本もあるし、小さいながら安心できる本屋さんでした。
子どもの本のコーナーで、見慣れた肖像画が目に入りました。若き日のエリザベス女王がこちらを向いています。表紙を見せて飾られた本は、イギリスの歴史の本です。『時の旅人』には直接登場しないけれど、その存在が恐怖とともに伝わってきた女王は、まぎれもなく影の登場人物といえます。思いがけない再会でした。
病弱なペネロピーは、姉兄とともに、ダービシャーにある大おばのサッカーズ農場へ転地療養にいきます。そこは、何百年も昔、バビントン一族が住んでいたお屋敷でした。16世紀、アンソニー・バビントンは、スコットランドのメアリー女王を救出する計画に連座して絞首台にのぼり、お屋敷は分割されてしまったのです。
ペネロピーは、この古いサッカーズ農場で今と16世紀をいったりきたりして、バビントン一族と心を通わせながら、その悲劇を見守ります。
サッカーズ農場のモデルのマナー・ファーム。元BBCのディレクターというご夫妻がいまも住んでいらっしゃって、はるか東方からやってきた私たちを歓迎してくださいました。やや黄色味を帯びた石をたがいちがいに組んでいて、同じ石造りでも湖水地方とはちがいます。
家の中に入ると、そこは台所。暖炉と大きなテーブルがあります。
ペネロピーが迷い込んだ16世紀の台所では、シスリーおばさんが絶え間なく手と口を動かしながらケーキやパイをつくり、女中たちが卵をかきまわしたり掃除をしたり、暖炉の火で男の子が焼き串をまわしたりと、大勢が立ち働いています。先が見えないくらい大きい部屋を想像していましたが、意外と小さい。ここだけでなく、ポターのヒルトップ農場の住まいやワーズワースのダブコッテジの中に入ってみて、イギリスの部屋は小さいという印象をもちました。ダブルベッドなど、立派な天蓋がかかっていてもとても小さくて、ここに2人で寝るのはきつそうだなあと思えました。
暖炉の上の金具。自在鍵のようにここに何かを架けるのでしょうか?
石の壁と木製の梁が組み合わさっています。
この暖炉の前に、いったいどれだけの数の人が立ったのでしょう。その人たちと時を超えてこの暖炉を共有することができたら、たとえほんの一瞬でも体験できたらと想像せずにはいられません。
メアリー・スチュアートは、華やかな一方、悲劇的な生涯を遂げたスコットランドの女王です。16歳でフランス皇太子と結婚し、フランス王妃となり、栄華を極めますが、夫の死により母国に帰ります。しかしそこは彼女にとって安住の地ではありませんでした。宗教問題や血で血を洗う政争に巻き込まれ、二度の結婚と目の前で夫が殺害されるという惨劇を経験したのち、エリザベス一世が統治するイングランドに逃れます。しかし、国の内外には、メアリーこそが、イングランドの正しい王位継承者だとする主張があり、不安を抱いたエリザベス女王は、メアリーを捕らえると19年ものあいだ幽閉します。そして1587年、エリザベス女王暗殺の陰謀に加担したとして、ついに処刑します。
幽閉中のメアリーを救出しようとしたのが、アンソニー・バビントンでした。物語の中で、アンソニーは、近くのウィングフィールドのお城に住んでいるメアリーを救おうとトンネルを掘ります。
庭には、いわくありげなトンネルが残っていて、私たちは一人ひとり、この枯葉の落ちた石段から身を乗り出して中をのぞきました。ワインセラーとして使われたとも、カトリックの隠れ家であったとも、メアリー女王救出に使われたとも諸説あるということですが、奥から立ち昇ってくる冷気に触れると、これはやっぱり!と思わずにはいられません。アトリーもきっと子どものころからこのトンネル跡を見て、メアリー・スチュアート救出作戦へと想いをめぐらしたことでしょう。
農場の裏手には、春と夏と秋が共有しているような庭がありました。カタクリとリンゴ(甘酸っぱくておいしい)がこんな具合に並んで、私たちを迎えてくれました。
農場のすぐ裏には、バビントン家の教会が建っています。アンソニーがメアリー女王からもらった大切なロケットをなくし、300年以上後に、ペネロピーがロケットを見つけた教会です。脇には大きなイチイの木がそびえ、塔には物語に書いてあったように盾型の紋章があります。私たちがいったときには、風が雲を呼び、一瞬のうちにあたりを明るくしたり暗くしたり、雲が盛んに光を切り替えていました。
メアリー女王が幽閉されていたウィングフィールドのお城の廃墟です。ペネロピーは、一度は16世紀に、花束をもってメアー女王に会いにいきます。そして二度目に母親と出かけたときに、ウィングフィールドが廃墟となったことにショックを受け、「だれが、こんなにこわしてしまったの?」と悲しく叫びます。私たちが見たのも廃墟となったお城で、サンザシやスグリやヤブ草が生い茂る山道をひたすらのぼって、たどり着いたのです。
旅行の最終日に、ロンドンのチェルシーの街を歩いていたときに、本屋さんを見つけて入りました。私たちが旅で巡った物語がちゃんと並んでいるし、絵本のコーナーには日本でおなじみの絵本もあるし、小さいながら安心できる本屋さんでした。
子どもの本のコーナーで、見慣れた肖像画が目に入りました。若き日のエリザベス女王がこちらを向いています。表紙を見せて飾られた本は、イギリスの歴史の本です。『時の旅人』には直接登場しないけれど、その存在が恐怖とともに伝わってきた女王は、まぎれもなく影の登場人物といえます。思いがけない再会でした。
●今回のお話に関係する本
『時の旅人』
●アリソン・アトリー/作
●松野正子/訳
●岩波少年文庫