「わたしがつらい気持ちで浅間を見るとき、煙はいつもまっすぐに立っている。」
この一文は、私の中にくっきりと筋のように、ある。苦労を越えて歩んできた人のことばとしてでなく、私の中のくすぶっていた感情を遠くに流してくれるものとして。
小学校三年生くらいだっただろうか、丸岡秀子の『ひとすじの道』を読んだ。恐らく夏休みの課題図書か何かだったのだと思う。
明治時代の終わりに、酒屋を営む生家から祖父母の家へ預けられ、多感な少女時代を、貧しいながら、自分を支える柱に「つましく働くこと」を据え、誇り高く生きて行く著者の自伝的作品。こう解説すれば、優等生的読書のためのテキストのようであるが、私の場合は違った。この本に出会う少し前まで、母の実家である和菓子屋に母親とふたりで居候し、いつも他者の顔色を見ながら過ごしていた私には、自分を読むような痛みと共感があった。少しでも厄介者扱いされぬようにと背伸びして、その背伸びしている自分の内側のことばがうずうずと自分を突上げる。その息苦しさは、実生活の不自由さを凌ぐものであった。溜めていたその感覚を迷いなく外に誘い出し、そのまま火口から山のふもとへと押し流してくれたのだ。
いまだに私の中には、居候時代の「少女」がいる。内心びくびくしながら、それを気取られぬよう「健気にまっすぐ」を生きる「少女」が、いる。『ひとすじの道』を読み返すと、ぶれず静かに語ろうとする文体の中に、丸岡の中の「少女」が見える。この文体で語ることを選んだのが、作者丸岡でなく実はその「少女」なのだとわかることで、私は児童文学の書き手として生きようとする自分が支えられているのかもしれない。
●村中李衣(むらなか・りえ)
すももが洋服を着ているようだと言われ、このペンネームになる。
幼少期より20回を超える引っ越し歴をもつ。
大学時代、当時筑波大学芸術学群におられた杉田豊先生のもとへ、他学群の学生でありながら、昼休みの時間、猛ダッシュで自転車を飛ばし、油絵の手ほどきを受ける。学生とはかくも遠慮知らずの怖いもの知らず。この原体験が今の学生たちとの距離感を作ったのかも。梅光学院大学文学部教授。
■わたしがくりかえし読む本
『長くつ下のピッピ』
●ここに出てくる本
『ひとすじの道』 (三部作)
●丸岡秀子
●偕成社
『長くつ下のピッピ』
●アストリッド・リンドグレーン/作
●桜井誠/絵
●大塚勇三/訳
●岩波書店