企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第66回 

ギュンウシュウ出版2024年春の新刊②

1.Uyku Şehir /『眠る街』

ギュンウシュウ出版が2024年に刊行を決めた、ベヒチ・アクの一般向け書籍の2冊目。『ぐうたら星』はユーモアを含む短編集だが、こちらはイスタンブルに暮らす世代の異なる3人の登場人物描く小説である。
 
テーマは「3つのイスタンブル、3つの世代、3つの平凡な生活」。
 
ベヒチ・アクはイスタンブルを舞台に、加速して肥大化し、停滞しては根幹部分をなくしてゆく都市と、そこに暮らす人びとを描いた。彼らは自身の役割を模索し、家族や街に疑問を抱き、常にお互いを非難し合い、その代償を人知れず払っている。
 
イスタンブルは、ブルーモスクやアヤソフィア、グランドバザールなどが有名で、世界遺産にも登録されるなど、歴史と異国情緒あふれる観光地としてとらえられることが多い。それは間違いではないが、一方で、高層ビルや高級アパルトマン、再開発による街の整備や斬新なデザインのショッピングモールなど、いわゆる無機質で先進的な大都市としての側面も持っている。
 
 

ガラタ塔から高層ビル群が見える。
写真は2019年のものなので現在ではさらに広がっているはず。
© ikuko suzuki

 
 

© ikuko suzuki

 
しかし、そのすぐとなりにはアパルトマンが並び、ごく普通のスーパーマーケットや雑貨屋があり、市場が立ち、市井のひとの生活がある。
 
イスタンブルの異なる3か所に暮らす、世代が異なる3人の平凡な生活を描写する。彼らを外から内から眺めるベヒチ・アクを、編集部は以下のように評している。
 
「(著者ベヒチ・アクは)フラヌール(注1)であり、タイムトラベラーである。眠る街を歩きまわり、ニヒリズムへと進化する印象的な社会的視点を提示する」。
 
第一章「中心部の郊外」では、移り変わるイスタンブル中心部にありながら、子ども時代から時が停滞しよどんだ家に暮らす老いた男が描かれる。
 
彼の家にやってくるものはすべて、その速度を落とす。トマト、おもちゃの車、シャツの領収書、くつした、目覚まし時計……対象がなんであっても、結果は変わらない。すべてのものは徐々に停滞し、鈍重になり、まったく別の軌道を描く惑星の上で異なるリズムを持って存在し続ける。
 
人間にも同じことが起こる。彼の家のドアを一歩入ったその瞬間から、平穏と怠惰が入り混じった気分になり、鈍重になる。奇妙な不従順と無気力が体を包み、二度とそこから動くことのできない岩と化す。
 
何年も前、「ここでは時が止まってるのね、いつもなにも変わらない」と、恋人だったひとが言ったことがある。「こんなになにもかわらない場所、世界のどこにもないわよ」
 
彼は「それは悪いことかな?」と聞いた。そばかすと長い髪、エナメル革のジャケットを着た彼女は「悪い、とは言えないかな」と答えた。「ここは安全で、優柔不断が安定を生み出す無意味な回廊。とんでもない冗談みないなものよ。ものすごい失望、それか対立の一番怠惰な形かな」
 
音を立ててドアを閉め、立ち去ることができた者はいない。そうそう簡単に放棄することはできない場所だ。ブラックホールのように、人びとを吸い寄せる。世界最速のランナーだろうが、世界一のせっかちだろうが、停滞の迷宮の中では道に迷うものだ。彼の家は、母親の胎内であり、特別養護老人施設であり、途方もなく巨大な目的地のない洞くつであり、停滞の時代であり、未来へ延期されたプロジェクトへの欲望によって満たされた怠惰のオアシスである。
 

©Günışığı Kitaplığı

 
歌が震わせた装飾ガラスの振動は、40年前から変わらずそこにある。はるか向こうに見える榎の枝に夕日が反射して壁に赤い丸が踊り、日が沈みゆくのを教えてくれる。手入れの悪さとホコリはもう文化みたいなものだ。もっとも強力なものは慣れだから。
 
ブラインドのすき間を滑ってゆく雲、ヴァプール(注:ボスフォラス海峡の連絡船)、忘れ去られた色、カーステレオにすら入っていない昔の重々しい歌、友人の集まりに呼ばれない哀しみ、よく考えてやっと笑えるようなこと。すべてその部屋にある。生活のリズムを停滞させるという理由で禁止された物語でさえも……すぐとなりに。思考を奪われる。催眠術にかかる。窓が設置されてからこっち1回も取り替えていない装飾ガラスの向こうに初めて、スレイマニエ・モスク(注2)とアヤソフィアを感じられる。立ち止まり、眺める時間がない者はみな、その瞬間をこのガラス窓の前で過ごしてもらいたい。人生には、議論の余地なくいかなる状態にも適した唯一のリズムがある。どこか一カ所に腰を落ち着けることの正当性など消え失せる。外の世界はにせものだ。過去も未来も、決して流れゆくことない時間の狂信者たることはできない。自分自身を長々と見つめる時間が、この部屋にはある。
 
『ぐうたら星』とも、これまで手掛けてきた児童向け作品とも異なるベヒチ・アクの世界である。作家としての幅の広さを感じさせる。
 
第二章は「解放された地域」、第三章は「眠る街」で、第一章とは異なる世代が描かれる。
 
 
注1:フランス語で遊歩者、散策者などの意。目的もなくぶらぶらと歩きまわるひとのことを指す。ドイツの哲学者・文芸批評家・思想家であるヴァルター・ベンヤミン(18921940)は、著作『パサージュ論』(岩波文庫)で、フラヌールとは遊歩しながら観察し、研究し、陶酔するひとであると考察している。
 
2Süleymaniye Camii。イスタンブル旧市街にあるモスク。1557年、オスマン帝国第10代皇帝スレイマン1世(14941566)によって建てられた。設計は有名な建築家ミマル・スィナン(1489/901588)。
 

作家プロフィール


Behiç Ak
(ベヒチ・アク)
サムスン生まれ。イスタンブルで建築を学ぶ。1982年から、ジュムフリエット紙で、カリカチュア(風刺漫画)を手がけている。児童書、カリカチュア、戯曲、芸術監督などを手がける一方で、映画業界でも活躍する。1994年に撮影したドキュメンタリー映画『トルコ映画における検閲の歴史-黒幕』は同年に国内の映画賞を受賞した。
最初の児童向け作品『高血圧のプラタナス』は、野間国際絵本原画展の第5回奨励賞を獲得し、ギュンウシュウ出版によって、新たな装丁となったものが、2014年、中国語にも翻訳された。絵本作品の『ふしぎなくも』『ネコの島』『めがねをかけたドラゴン』『ぞうのジャンボ』などは日本語に翻訳、出版されている。
また、過去の作品を新しい装丁でギュンウシュウ出版より発表した。『ベヒチ・アクの笑い話』というタイトルにまとめられた物語は、子どもだけでなく大人の読者からも支持を受けている。30年来の漫画を集めた『ベヒチ・アクのイラスト集』も人気を博している。『Çの友情に乾杯!』(2013)は、ÇGYD(児童・ヤングアダルト図書協会)によって、同年の最優秀児童書作品に選ばれた。同作に始まる「唯一の子どもたち」シリーズは『理髪店のオウム』(2022)で11冊を数える。
アストリッド・リンドグレーン記念文学賞、国際アンデルセン賞のトルコのオナーに選出されている。
一般小説も手がけてきたベヒチ・アクは、2024年、ギュンウシュウ出版から始めて出版された2作の一般向け書籍『ぐうたら星』『眠る街』を手がけた。
 
 
  
執筆者プロフィール


鈴木郁子
(すずき・いくこ)
出版関連の会社に勤務後、トルコへ留学。イスタンブルで、マルマラ大学大学院の近・現代トルコ文学室に在籍し、19世紀末から現代までのトルコ文学を学ぶ。修士論文のテーマは『アフメット・ハーシムの詩に見える俳句的美意識の影響』。 
 
帰国後は、トルコ作品、特に児童書やヤングアダルト作品を日本に紹介しようと活動を続けている。トルコ語通訳・翻訳も行う。トルコ文芸文化研究会所属。 著書に『アジアの道案内 トルコ まちの市場で買いものしよう』(玉川大学出版部)、翻訳に『オメル・セイフェッティン短編選集』(公益財団法人 大同生命国際文化基金)