企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第65回 

ギュンウシュウ出版2024年春の新刊①

日本でも様々なものの値上がりが言われて久しいが、トルコのインフレもなかなか厳しい。
 
例えば、トルコのあちこちで売られているごま付きのドーナツ型のパン・スィミットは、2019年には、イスタンブルで1個2TL(トルコリラ)だった。初めてトルコに行った2006年ではさらに安く、50クルシュ(100クルシュ=1TL)だった。
 
これが2024年3月現在、イスタンブルでは100gにつき10TLになっている。各都市によって値段が上下するのだが、アンカラでは1個15TLに値上がりしたと2024年1月のニュースで報じられていた。ただしこれは、販売の際に設定可能な最高値として定められた値段であり、実際は10TLが主であるようだ。5TLや3TLで売る店もあると報じられている。当然、イスタンブルでも値段の差はあり、15TLで売る店もあれば、12TL、10TLで売る店もある。
 

ごまパンのスィミット。プロセスチーズに似たカシャルチーズと一緒に食べるのが定番
© ikuko suzuki

 
50クルシュの時代から25クルシュ、さらに50クルシュとジワジワ加算されて、この値段である。各地値段の差こそあれ、総じて値上げが続いている。理由は主に原材料の激しい値上がりだそうで、特に小麦、ごま、油、砂糖などの値上がりがスィミットの値段に反映されたといわれている。
 
日本円に換算すると、トルコリラに対しなぜか円が強いので、それほどの高額ではないのだが、トルコリラで生活しているひとたちにとっては問題である。給料は値上げと同じペースでは上がらないため、トルコでは貧富の差が再び開いていると友人から聞かされた。
 
書籍の価格も2010年ころに1冊12TLで購入したのと同じものが、今では85TLである。10倍前後に値上がりし、ゼロがひとつ増えた本も少なくない。
 
つまり出版社も厳しい経営を強いられている。
 
そんな中、ギュンウシュウ出版は初めて一般向け書籍2冊の刊行を決めた。現状の打開策のひとつといってもよいかもしれない。しかし、児童向け書籍・ヤングアダルト専門出版社として、作家にベヒチ・アクを選んだ。一般向け書籍ではあるが、ヤングアダルトを読む世代でも、ON18文庫を読むヤングアダルトを卒業した世代でも、一般向け書籍を選ぶ世代でも楽しんで読むことができる作品に仕上げている。
 
傾向の異なる2作品が、ギュンウシュウ出版にとっても、作者にとってもよい作用をもたらすことを祈っている。
 

1.Yıldızların Tembelliği /『ぐうたら星』

ベヒチ・アクがギュンウシュウ出版から初めて刊行した一般向け書籍。「正常と不条理の間を行き来する」をテーマとした短編集。13編を収める。
 

© Günışığı Kitaplığı

 
ベヒチ・アクらしい、隠されたユーモアを哲学としつつ、正常と不条理のあいだで揺れ動く人生を描く。編集部は「平凡なものが驚くべき衝撃的なものにもなり得ることを示しながら、現実をベースとし、その現実を歪め、ひっくり返す。ときには不条理であり、ときにはコミカルな人間の感情を描く」としている。
 
タイトルは収められた短編の中の一編から取られている。天体が最も効率的な軌跡を選び、その範囲内で移動することを「星の怠惰の法則」とした。すべての星は最も怠惰な状態を維持し、その制限内で移動するという意味である。
 
収められた短編はタイトルになったものを含め以下の通り。
 
「私は彼が誰だったのかまったく思い出せない」「時間理論」「詩のパーティー」「未実現プロジェクト」「とある夢:詩をやめさせるための講座」「絵画のレッスン」「壊れた変圧器の物語」「電話代」「三日月」「ぐうたら星」「ある愛の物語」「最近の発掘」「説明」
 
「私は彼が誰だったのかまったく思い出せない」では、数年来の知人に再会したはずが、まったく覚えのないことを次々明かされたうえに、子ども時代のことまで言い当てられ、幼馴染だと言われて、なんとなく釈然としないまま彼の奇妙なペースにはまっていく男の不安を描く。
 
冬の日、カドゥキョイ(注:イスタンブル、アジアサイドの街)行きのヴァプール(注:ボスフォラス海峡の連絡船)で顔を合わせた。彼は、丸めたスケッチ用紙、プラスチック製の T 型定規、さまざまな三角定規が入ったビニール袋を持っていた。
 
「やあ」私は言った。「元気かい?」
 
「聞かないでくれ、ひどいもんだよ」と彼は答えた。「もうこの仕事はやめる」
 
「どの仕事?」私は聞いた。
 
「建設エンジニアリングだよ」
 
私は、以前から彼のことを知ってはいたが、正直言って、彼が建設エンジニアだったとは知らなかった。だが自分の義務とばかりに、私はこう続けた。
 
「ばかなことをするなよ、建設エンジニアなんてやめるもんじゃないだろう? 結局は君の天職なんだから……」。実際のところ、彼が仕事をやめ別の仕事を始めようが、私にはどうでもよかった。それに今の時代、パソコンのかわりにいまだT型定規や色んな三角定規を使って建設エンジニアをやろうなんて人間にチャンスはない。
 
「いや、こんな仕事なくなってしまえばいい!」と彼は話を続けた。「知ってのとおり、そのせいでぼくの空手の稽古はすっかり中断されたんだ。空手をやめたのはそのせいだ。もし続けていたら……」
 
「へえ、驚いたね」と私は言った。
 
「驚いたって、なにが?」
 
「きみが空手をやっていたなんて、ちっとも知らなかった」
 
彼は、ポケットから「柔道・空手連盟」と書かれたカードを取り出した。さっきも言ったが、そもそも私はそんなことに興味はない。それでもカードの顔写真をチラッとは見た。写真に写った顔は、今の彼のようすに似ても似つかないものだった。髪を剃り上げ、顔色は悪く、今より10キロは痩せた男が写っている。
 
「ブルサ(注:トルコ北西部マルマラ地方の都市)刑務所に収容されていたときの写真だ。笑い話にしようと思って」
 
「え、きみ、刑務所に入っていたのか?」
 
ここから、知人が自分自身について語ることは主人公がまったく知らないことばかりなのに、主人公の過去や現状だけはずばりと言い当てられる、という状況が続く。気味が悪くなってきた主人公は、この男からなんとか逃れようとするが、最終的な目的地は同じだと言われ、男の奇妙なペースと押しの強さに流されるまま、行動を共にすることになる。
 

作家プロフィール


Behiç Ak
(ベヒチ・アク)
サムスン生まれ。イスタンブルで建築を学ぶ。1982年から、ジュムフリエット紙で、カリカチュア(風刺漫画)を手がけている。児童書、カリカチュア、戯曲、芸術監督などを手がける一方で、映画業界でも活躍する。1994年に撮影したドキュメンタリー映画『トルコ映画における検閲の歴史-黒幕』は同年に国内の映画賞を受賞した。
最初の児童向け作品『高血圧のプラタナス』は、野間国際絵本原画展の第5回奨励賞を獲得し、ギュンウシュウ出版によって、新たな装丁となったものが、2014年、中国語にも翻訳された。絵本作品の『ふしぎなくも』『ネコの島』『めがねをかけたドラゴン』『ぞうのジャンボ』などは日本語に翻訳、出版されている。
また、過去の作品を新しい装丁でギュンウシュウ出版より発表した。『ベヒチ・アクの笑い話』というタイトルにまとめられた物語は、子どもだけでなく大人の読者からも支持を受けている。30年来の漫画を集めた『ベヒチ・アクのイラスト集』も人気を博している。『Çの友情に乾杯!』(2013)は、ÇGYD(児童・ヤングアダルト図書協会)によって、同年の最優秀児童書作品に選ばれた。同作に始まる「唯一の子どもたち」シリーズは『理髪店のオウム』(2022)で11冊を数える。
アストリッド・リンドグレーン記念文学賞、国際アンデルセン賞のトルコのオナーに選出されている。
一般小説も手がけてきたベヒチ・アクは、2024年、ギュンウシュウ出版から始めて出版された2作の一般向け書籍『ぐうたら星』『眠る街』を手がけた。
 
 
  
執筆者プロフィール


鈴木郁子
(すずき・いくこ)
出版関連の会社に勤務後、トルコへ留学。イスタンブルで、マルマラ大学大学院の近・現代トルコ文学室に在籍し、19世紀末から現代までのトルコ文学を学ぶ。修士論文のテーマは『アフメット・ハーシムの詩に見える俳句的美意識の影響』。 
 
帰国後は、トルコ作品、特に児童書やヤングアダルト作品を日本に紹介しようと活動を続けている。トルコ語通訳・翻訳も行う。トルコ文芸文化研究会所属。 著書に『アジアの道案内 トルコ まちの市場で買いものしよう』(玉川大学出版部)、翻訳に『オメル・セイフェッティン短編選集』(公益財団法人 大同生命国際文化基金)