企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第4回 
ミュゲ・イプリッキチに聞く4

― 一時期から作品の形式が短編から小説へ変化します。理由は何かあるのですか
M・İ:小説は、私の表現方法とは別のところにあるものでした。でも、こう考えるようになったのです。「小説を書くのは、短編を書くのより、簡単だ!」と。大切なのは、考えとアイデアをつかまえることですからね。少なくとも、私が作品で重視したのは、そういうことだったんです。

©Müge İplikçi/©Can Yayınları
『消してしまえ頭から』(2019)
小説。ひたすらに「ほこり」を払う文学教師ネヴィエを通じて、現代トルコ社会を描く


―最初の小説『灰と風』についておうかがいします。この作品を書こうと決めたきっかけはなんでしたか
M・İ:私の大おばがアルツハイマーになったことが、この小説のきっかけですね。あのとき、私は記憶というものについて考えていたんです。
 

©Müge İplikçi/©Can Yayınları
『灰と風』(2004)


―実際に書きはじめる前、書いているあいだは何を感じていましたか。アルツハイマーが作品のテーマのひとつである以上、難しかったのではないかと
M・İ:調査のあいだは、とてもつらかったです。私がこれまでの人生で手がけた、一番難しい小説でした。自分自身も年を重ねていくなかで、おそらく、書かなくてはならない小説だったのだと思っています。アルツハイマー型認知症の患者の頭の中へ入りこんで書いたといってもいいでしょう。とにかく大変な小説でした。
 

―主人公はアルツハイマーを患うフェヒメという女性で、彼女の思い出、記憶とともに物語は進んでいきます。この小説の大切なポイントは「忘却と記憶」「個人の歴史と社会的な歴史」の対比であると言われています。ふたつの対比を描くことで、読者の目をどこへ向けようと考えたのですか
M・İ:時代が進むごとにますます、中東的な世界へと移行しつつあるトルコの、慣習的な忘却と記憶のありかたに注目をしてほしかったのです。忘れてしまうことと同様、忘れずにいるということが、社会に対し、もちろん信仰に対して、また色々なことに対してどういった財産となりうるのかを描き出すのが、私の主な出発点でした。これを描くために、個人の記憶を描くことから始めたわけです。
 

©Müge İplikçi/©Everest Yayınları
『ジェムレ』(2006)
小説。『灰と風』と同じ舞台で異なる時間を描く。主人公の3人の女性の1960年代から2000年代を追う

 

―小説のタイトルの「灰」は、冒頭の火事のシーンから、フェヒメの頭の中に残った「記憶のかけら」のメタファーとされています。では「風」はなんのメタファーでしょう
M・İ:「時」と言えるでしょうか……。時間の中に置き去りにされた記憶は忘れ去られますが、ときには、忘れるだけの時間が足りないこともあります。時の試練に耐えうるほどの経験、というものもあります。吹き飛ばすだけの風が足りないとき、それは表面に現れてくるのです。灰となってもなお、残ったものは頭の中をほじくり回すのをやめないのです。
 

―この小説では、女性問題と同時により幅広い社会的問題もテーマのひとつになっている、と言えるでしょうか
M・İ:女性問題は、私の全作品の根幹をなすテーマです。この作品でも主軸にあります。どちらかというと、女性のアイデンティティにおいて記憶が占める場所とは、というのがテーマと言えるかもしれません。
 

©Müge İplikçi/©Everest Yayınları
『美しいひと』(2012)
小説。ひとりの少女がさらわれたことで、時間が止まったようだった村に起きたできごとを描く

 
 

 ●著者紹介


Müge İplikçi
(ミュゲ・イプリッキチ)
イスタンブル生まれ。アナドル高校卒業後、イスタンブル大学英語学・英文学学科を修了。イスタンブル大学女性学学科および、オハイオ州立大学で修士課程修了後、教員として勤務する。
 
当初は短編で知られていた。『タンブリング』(1998)をはじめとして、『コロンブスの女たち』、『明日のうしろ』、『トランジットの乗客』、『はかなきアザレア』、『短気なゴーストバスターズ』、『心から愛する人びと』など。小説には『灰と風』『ジェムレ』(アラビア語に翻訳された)、『カーフ山』(英語に翻訳された)、『美しき若者』、『父のあとから』、『消してしまえ頭から』など。これに加え、『廃墟の街の女たち』、『ピンセットが引き抜くもの』(ウムラン・カルタル共著)、『わたしたちは、あそこで幸せだった』などの論考を発表している。現代という時代、日常の中にある人びと、人間関係、人間関係の一部である女性に関するテーマを好んで取り上げる。
 
児童・ヤングアダルト向け作品には、『とんだ火曜日』(ドイツ語に翻訳された)、『不思議な大航海』、『目撃者はうそをついた』、『隠れ鬼』、『石炭色の少年』、『アイスクリームはお守り』、『おはようの貯水池』など。
 
トルコ・ペンクラブ女性作家委員会の委員長を4年務め、長年、研究者及びコラムニストとしても活動した。現在、メディアスコープtvにおいて「オリーブの枝」、「シャボン玉」という番組のプロデューサー兼司会者を務めている。また、子どもたちと共に出版した雑誌「ミクロスコープ」の編集長でもある。
 
 


©Müge İplikçi
 
 
●著者紹介


鈴木郁子(すずき・いくこ)
出版関連の会社に勤務後、トルコへ留学。イスタンブルで、マルマラ大学大学院の近・現代トルコ文学室に在籍し、19世紀末から現代までのトルコ文学を学ぶ。修士論文のテーマは『アフメット・ハーシムの詩に見える俳句的美意識の影響』。

帰国後は、トルコ作品、特に児童書やヤングアダルト作品を日本に紹介しようと活動を続けている。トルコ語通訳・翻訳も行う。トルコ文芸文化研究会所属。 著書に『アジアの道案内 トルコ まちの市場で買いものしよう』(玉川大学出版部)、翻訳に『オメル・セイフェッティン短編選集』(公益財団法人 大同生命国際文化基金)