企画・編集・制作工房 株式会社本作り空 Sola
 

第6回(最終回)


子どものころ『たのしい川べ』の愛読者だった私は、『たのしい川べ』のような川を見てみたいとずっと思っていました。両岸に石の川原が広がっている日本の川しか知らなかったので、緑の野辺を走る川を見たかったのです。そんな川なら、目を凝らせば、水面ぎりぎりの土手に小さな穴があって、ネズミの目が光っているのが見えるかもしれません。石ころだらけの川原ではそうはいきませんからね。
そんなわけで、勇んでオックスフォードから、車で1時間ほどにあるクッカムディーンに向かいました。この地は、幼いケネス・グレーアム兄弟が、母を失い、祖母にあずけられたところです。けっして幸せとはいえない、むしろ寂しい暮らしだったのに、そこで出会ったテムズ川が終生の懐かしい地になり、『たのしい川べ』が生まれたのです。寂しいからこそ、川との出会いは、グレーアムの心に強く刻まれたのでしょう。


 
私には、たのしい川べは、立派すぎました。もうすこし小さな流れを予想していたのに……。これでは、ネズミとモグラのボートは小さすぎて、どこをどう漕いでいけばいいんでしょう。ほんとうに『たのしい川べ』の舞台かしらと内心疑っていたら、ちゃんと証拠がありました。


 
この白い鉄橋は、2匹が出会ったばかりの場面で、画家のシェパードが描いた絵に登場します。青いボートを操りながら、モグラの無鉄砲な行動を戒めるネズミ、そのうしろに、写真と同じ模様の白い橋がかけられています。
シェパードが挿絵を描きにきたときに、この鉄橋はかけられたばかりだったそうです。こんな近代的な橋が挿絵に描かれていたなんて、気づきませんでした。


 
ネズミたちの川を愛する心は人間にも受け継がれていて、こんなふうに川を行ったり来たりして夏を楽しむ人々がいました。向こう岸に目をやると、たしかにヒキガエル屋敷とおぼしき立派なお屋敷もあります。


 
たくさんの立派な屋敷が並ぶ川べりですが、この1軒をヒキガエル屋敷に選んでみました。柳と船着き場とボートが見えるでしょう?

*  *

『たのしい川べ』は、グレーアムが息子のアラステアに、寝るまえに語って聞かせた物語から生まれました。はじめは、アラステアの希望するネズミとキリンとモグラの話だったのが、いつのまにかキリンは消えて、アナグマやヒキガエルが登場し、物語の舞台は川べの両側に続く森や野原、牧草地、村にまで広がっていったのです。


 
グレーアム夫妻が晩年に住んだChruch Cottageには、いまは別の人が住んでいます。以前このあたりを調べていた池田先生は、この家の主に犬をけしかけられたとか。そんな剣呑な家ですが、先生は私たちのためにわざわざ案内し、すこしでも無謀な行為におよぶものがいないか絶えず注意していらっしゃいました。


 
私が命がけで(?)撮ったグレーアムの家です。


 
隣りがセント・ジェームズ教会で、はじめにグレーアムはここに埋葬され、いまは息子のアラステアともに、オックスフォードのセント・クレス教会で眠っています。


 
アラステアは、体も心も弱く、その事実を受け入れられなかった両親の過剰な期待に耐えられず、20歳で鉄道自殺をしました。これは、前日訪れたグレーアムと息子のお墓です。人を幸せにする児童文学が生まれた背景に、時には悲しい人生が潜んでいます。まるで幸と不幸の天秤棒のバランスをとるかのように。

私たちが見学を終えてバスに乗り込んでいると、犬を連れた近所の男性が通りかかり、何を見にきたのかと不思議そうに聞きました。ケネス・グレーアムと聞いても、その男性はまったくピンとこないようでした。日本からわざわざ大挙して、見にくるなんて、変な人たちと思われたのでしょうね。



街の標識。

私は日本でたのしい川べを発見したことがあります。中学1年生の春、友だちと玉川上水を小平から1日かけてさかのぼっていきました。お弁当を持って、しゃべったり、歌ったりしながら、上水の川べりを歩いていたら、それまで堀のずっと下を流れていた水がせりあがって、突然緑の草原に飛び出してきたのです。流れはあふれんばかりのたっぷりの水をキラキラさせて、緑の土手の間を走っていました。「あっ、たのしい川べだ」と、私は叫びました。本物を見たいまも、私の心のなかを私だけのたのしい川べが流れています。



最終日の午後、ロンドンで入った小さな書店。今回の旅で訪問した本がそろっていました。ピーターラビットもアリスもアスランもツバメ号とアマゾン号もたのしい川べも!



*  *



長い間、お付き合いいただき、ありがとうございます。これでやっと終着点につきました。

FIN

●今回のお話に関係する本




『たのしい川べ ヒキガエルの冒険』
●ケネス・グレーアム/作 
●E・H・シェパード/絵 
●石井桃子/訳 
●岩波書店